じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

「八月がそこにいた」 三善晃の音楽

昨日は長崎に原爆が落された日。その三日前は広島に。

終戦後に生まれた者にとっては、夏が巡ってくるたびに、自身と戦没者をつなぐ経路について考えることを促されます。それは、どのようにして「戦争」を知るかという手続きとも結びついているのでしょう。家族や親戚、あるいは年長者で実際に戦争を体験した方から直接話を聞くことによって。あるいは書物を読むことや映画やテレビのドキュメンタリー番組によって。そして、なにかのきっかけで三善晃の音楽、とりわけ合唱とオーケストラのための「レクイエム」を聴いたとしたら・・・、おそらくその体験は生涯忘れない刻印を残すものとなるに相違ありません。

「レクイエム」は1972年の1月に完成し、3月に初演(1972年3月15日、東京文化会館岩城宏之指揮、NHK交響楽団、日本プロ合唱団連合)。この初演音源が、つい先頃、ナクソス・レーベルから発売されました。


三善晃混声合唱管弦楽のための「詩篇」/レクィエム』(日本プロ合唱団連合/東京都交響楽団小林研一郎指揮[詩篇]/NHK交響楽団岩城宏之指揮[レクィエム])〔NHK現代の音楽アーカイブシリーズ〕 「レクィエム」はモノラル録音ですが、生々しい息遣いが脈打ち、異様な熱気をはらんだ演奏です。(「詩篇」はステレオ録音)

この「レクイエム」初演は、聴衆と音楽家たちの心を深く打ちました。そして大規模な編成と複雑で難解なスコアにも関わらず、1977年に再演されます(1977年3月10日、東京文化会館外山雄三指揮、日本フィルハーモニー交響楽団、日本プロ合唱団連合、田中信昭合唱指揮)。そのときの録音はビクターからLPで発売され、長らく廃盤となっていましたが、当財団が2007年に初CD化しています(LPの片面に入っていた「変化嘆詠」の他、初CD化となる無伴奏合唱曲「四季に」、田原富子さんのすばらしい演奏による「ピアノ・ソナタを収録)。以下のリンク先には、日本プロ合唱団連合の事務局を担当していた小林信一さんから伺った演奏準備の様子についても記しています。→ 『三善晃「レクイエム」』(VZCC-1007)

「レクイエム」のスコアを購入したのは1980年頃だったでしょうか。ある音群をすばやく演奏して余韻を残す指示や、打楽器の緻密な扱いに目を瞠りました。無秩序かと見えた暴力的な音の塊が、じつは怜悧な意識で彫琢されていることも。

スコアに記された個々の音は耳で聴いて分別できる限界値を超えているのかもしれない、けれどもしかし、どの音もそこに在る必然を担わされているため、あるとき耳は、たとえ轟音のさなかであっても、その唯ひとつの顔と声を持つ音を、間違いなく捉えることができる・・・そうした体験が、私には、「レクイエム」を聴くたびに何度も訪れました。

合唱に出てくる微分音の指示、第二楽章の最後「弔詞」(詩:石垣りん)や第三楽章の「ゆうやけ」(詩:田中予始子、下記写真参照)の箇所で、録音を使うというアイディア(それもまた表現の必然としての要請に従ったもの。スコアの正確な表示では“テープ収録および会場内再生装置”)、さらに謡や浄瑠璃、邦楽器の屹立した響きの様態を思わせる音の運びからは、この作品が、日本の土地の奥底につながる意志を内在させていることが感得されます。

外山雄三指揮の再演時のライヴ盤では、第一楽章の「象のはなし」(詩:秋山清)の箇所でトランペットが小節をずれて吹いているのですが、たまたま新実徳英さんと食事の席をご一緒した機会にその話題になったところ、新実さんが「よい演奏とは必ずしも楽譜通りのものとは限りませんよ」と断じたのが印象的でした。「レクイエム」のLP制作時には、当時の山崎透ディレクターと三善さんが相当綿密に打合せをしていたとも聞いています。

各楽器のリアルな音の質感に近接して合唱を明確に前面に出したこの録音は、ホールで録ったとは思えない音です。実際の客席では決して体験できない人工的な響きだと言えばまったくその通りです(当日客席にいた人に伺ったところ、オーケストラの咆哮の向こうで合唱が必死に口を開いている声がかき消される場面が多々あったそうです)。しかしこの録音には、作品に相応しい精確な脈絡が潜んでいるように思います。

2008年の秋に、東京オペラシティで二夜に亙って「三善晃作品展」()が開催されたとき、私はそのパンフレットの編集を担当していました。冊子内の原稿で当初「レクイエム」「詩篇」「響紋」について「生と死の三部作」と書かれていたのを、三善さんは、校正時に「反戦三部作」と表記するように望まれました。終戦から月日が経ち、これまであえて言わなくてもよかった類のことが、そろそろきちんと言っておかないと伝わらない時代に変わってきたと思われたのかもしれません。

この三部作を引き継ぐかたちで達成されたのが、管弦楽のための四部作「夏の散乱」(1995)、「谺つり星」(1996)、「霧の果実」(1997)、「焉歌・波摘み」(1988)でした。これらの作品はいずれも、戦争による不条理の死を生き続けている魂に寄り添って書かれています。

「夏の散乱」では、広島と長崎に原爆が落された日付を数列とし、それを音に変換して変形を重ねて聴覚的には認識されない隠された秩序として作曲が行なわれています。三善さんはその数列を扱う過程を、扉を開けるための「鍵」だったと述べています(『波のあわいに』三善晃、丘山万里子 共著/春秋社)。

「夏」に散乱した無数の死者の声、死ねない死を今も生き続ける彼らの声を聞き取ろうとすること(ただし三善さんは曲目解説で、「しかし、死ねない死は、この地上の生きられない生のなかに、今も溢れ続けている。」と記しています)、それがこの作品の響きの実質であり、同時に、なぜ、どのようにして、その響きを聞くことができるのかを問うことが、音楽を演奏し聴く体験と重なっていく。「夏の散乱」には、宗左近さんの次の一行詩が添えられています。

   現(うつつ)よ 明るい私の塋(はか)よ

『三善 晃 交響四部作「夏の散乱」「谺つり星」「霧の果実」「焉歌・波摘み」』
秋山和慶指揮、堤剛(チェロ)、東京交響楽団大阪フィルハーモニー交響楽団

このCDのブックレットのために三善さんにお書きいただいた「無言の風景」という文章。その冒頭には次のような言葉が記されていました。

三部作のとき(レクイエム 72、詩篇 79、響紋 84年)、そこには私がいた。死者と生者のなかに混じり、ときに従って喜びや哀しみや憤りの声を挙げ、祈り、あるいは黙し、死者と交歓して踊り、生者とともに膝まづく、そんな私が、いた。

その後、四部作までに年月が過ぎた。四部作のとき(夏の散乱 95、谺つり星 96、霧の果実 97、焉歌・波摘み 98)には、そのような私はいなかった。替わりに八月がそこにいた。終戦の日(1945年8月15日)に向かって二つの原爆の日(8月6日、9日)の並ぶ八月が、歴史の刻印のように不動の風景として、いつの年もそこに残されていた。
(後略)

この交響四部作に繰り返し耳を傾けることを通じて、私は、三善さんの音楽の新たな世界と出会いました。気付かされたのは――濃密な音楽のなかに広がる細かい径路を辿るなかで、褶曲した地形に潜む幾筋もの川と地底を走る伏流水が呼び交わす声。それは写経の体験ともどこかで通じているのかもしれませんが、作品を何度も聴く内に、響きの向こう側にあるものが直接身体の内部に入ってきて、「空(くう)」がそのまま鳴動している状態、「言葉」が「響き」となって溢れてくるという状態に近づきつつあるように思えてきました。

三善さんは、自作の管弦楽曲のCD化を音質上の問題から長らく拒まれてきました。たしかに、CDでは三善さんの音楽の多層的で多次元的に呼び交わし合う響きは理解できないと、私も思います。それは何度となく三善さんの作品をホールで聴いて実感していることですが、しかし、これらの音楽がより多く演奏されていくためにもCDを残しておく必要はあると信じて、三善さんからもご理解を得られ、また演奏者の皆様のご協力もあって、「記録音源」でありながらようやく「交響四部作」のCD化が実現しました。そしてこの年(2009年)、本作は日本レコードアカデミー賞を受賞し、録音評でも高い評価を頂きました。

三善さんの音楽は、作者の内面の表出というだけでなく、戦争という不条理の悲惨に直面した他者の体験を音楽というかたちに設えて、聴き手のなかでそれが実体化し、手渡されていくという作用を含み持っています。だからこそ、その音楽はいつでも鳴り響く「魂の器(うつわ)」となって、わたしたちに自省を促し、わたしたちを鼓舞し、わたしたちに生と死について何度も問いかけているように思われるのです。

参考過去ブログ
「まど・みちお絵画展と三善晃『交響四部作』」(2010年10月01日)

(堀内)