じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

桃山晴衣 そらへ澄みのぼる声

今日12月5日は桃山晴衣さんの三回忌です。桃山さんの演奏やお話しに直に接して、日本が明治以来断絶させてしまった日本の文化伝統を取り戻すことの大切さに気付き、その後桃山さんの教えを胸に、各自の持ち場で仕事を続けている方も数多くいらっしゃるのではないかと思います。桃山さんは、会う人だれに対しても、精神と感性を揺さぶる強烈なインパクトを与える存在でした。いつもすぐ後ろから桃山さんに見られているような感覚は、亡くなる前も今もあまり変わらず、むしろ今のほうが強く感じられるほどです。

このリンク先に、1985年に雑誌「肉体言語」に掲載された桃山さんのインタビューが復刻掲載されています()。桃山さんの独特の語りの雰囲気、日本の伝統文化に寄せる思いの細やかな息吹を甦らせてくれます。インタビューはかなり長い内容ですが、これは最後まで読む価値があります。


当財団では、2000年に『遊びをせんとや生まれけん〜「梁塵秘抄」の世界』をCDで再発していましたが、昨年(2009年)12月、桃山さんのアルバムをさらに3枚発売いたしました。『夜叉姫』『弾き詠み草』『鬼の女の子守唄』の3作は、いずれもSHM-CD盤となります(すべてのCDプレーヤーでそのまま再生可能)。透明度の高い液晶パネル用のポリカーボネート素材を使っているため、レーザーが信号を読み取る際の歪みが減り、通常CDよりも良い音質でお聴きいただけます。

これら桃山晴衣さんの4枚のアルバム全曲の聴きどころを、「じゃぽ音っと」内で、各45秒ずつ試聴できるようにしました。以下のリンク先から各アルバムをクリックして、開いた画面を下にスクロールすると試聴コーナーがあります。→

CDの発売にあわせてA4サイズの告知チラシも作成しました。(画像をクリックすると拡大表示されます)
 


動画サイトに立光学舎(りゅうこうがくしゃ)の手で桃山さんの関連作品の映像が続々アップされているので、年代順にご紹介します。

桃山晴衣 TV番組「婉という女」ありて No3」。これは桃山さんが於晴会(おはるかい)の活動のなかで、大原富枝の『婉という女』を語りと歌によって作品化し、その後制作されたテレビ番組の一部。分割投稿されている内の三番目。桃山さんの初めてのレコード『弾き詠み草』には、この「婉という女」からの抜粋が収録されています。このアルバムの「虚空の舟唄」という曲では坂本龍一さんがシンセサイザーで参加しています。


『弾き詠み草』 LP盤(左)とSHM-CD盤(右)。
 


桃山さんの2枚目のアルバムで代表作でもある『遊びをせんとや生まれけん〜「梁塵秘抄」の世界』から、「遊びをせんとや生まれけん」と「からすは見るよに」と「仏は常にいませども」。



オリジナルLP盤と当財団からの復刻CD盤。
 

オリジナル盤のデザインは、プロデュースの中村とうようさんから苦心してディレクションしたものだと伺いました。以下がタスキのない表面・裏面のジャケット画像。美しい。でも桃山さん自身は当財団の復刻盤CDのデザインについて、結構気に入っていると仰っていました。
 


後に続編として立光学舎レーベルから発売されたCD『梁塵秘抄の世界2』から、冒頭に収録されている「瑠璃の浄土は潔し」。


ビクターからの3枚目『鬼の女の子守唄』から、「秋の色」と「遠野の河童淵」。


『鬼の女の子守唄』 LP盤(左)とSHM-CD盤(右)。
 


1986年の本作リリースと同時に桃山さんの最初の著書『恋ひ恋ひて・歌三絃』筑摩書房から刊行され(現在絶版)、また日本各地でのコンサート・ツアーも企画されて、共通折チラシが作成されました。




 


最後は『今様浄瑠璃「夜叉姫」』の1994年11月1日、東京梅若能楽堂での映像です。当財団から発売したCD盤の録音は、2002年1月17日から19日のパリ公演の直後、2002年2月のものです。なお、このパリ公演に関しては、共催した笹川日仏財団のサイト内のPDFファイル(笹川日仏財団ニュースレター La Lettre 2002年4月発行 Vol. 6 No. 1)で、桃山さんの活動に関する、大変詳細な記事を読むことができます。→「パリに響いた現代の『語り』」


桃山さんの作詞・作曲ですが、古曲・宮薗節の手が多く使われています。桃山晴衣さんは若くして四世宮薗千寿人間国宝)の唯一の内弟子となり、最も洗練された浄瑠璃と言われる宮薗節を極めますが、その後、日本音楽の源流を探す旅を経て、中世の歌謡「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」と巡り合い、その研究と実践に半生を捧げました。この『夜叉姫』は、梁塵秘抄の最後の伝え手である延寿とその娘の夜叉姫の悲劇を描いたものです。

人間国宝だった宮薗千寿さんの音源はソニーから出た6枚組LP『宮薗節全集』に収録されています。ソニーは優れた邦楽音源の原盤を多数もっていますが、会社の方針として他社を通じての復刻を製品のまとまった数での買取以外は認めておらず、当財団が数種の再発契約を申請した際も実現に至りませんでした。同社が独自にCD化するのを待つしかない状況ですが、昨今の邦楽CDの需要という経済的な見地からみれば大赤字の企画となるのは明らかなので、おそらく本作がCD化されることはないと思います。これらの音源が日の目を見ないまま消失していくのは誠に残念。当財団の活動目的はこうした音源の復刻にもあるので、いつの日かの復刻実現に向けて今後も交渉を続けていきたいと思います。

LP『遊びをせんとや生まれけん〜「梁塵秘抄」の世界』のインナー・スリーヴには、次のような桃山さんのプロフィールが掲載されていました。

桃山晴衣(本名・鹿島晴衣)は祖父に日本橋の豪商・鹿島清三郎(英、仏に足かけ八年洋行、兄・清兵衛と共に日本にカメラを広める)。祖母に古曲の名手、鹿島満寿を、そして洋画家鹿島大治を父に1939年6月22日東京に生れる。
大叔母に、三世宮薗節家元・宮薗千之(センシ)。大叔父に、長唄・吉住小三郎(晩年慈恭、人間国宝)をもつ家柄だけに幼少より三味線の音を身近にしながら、六才頃より習い始める。
学業は本人大いに考えるところがあり中学校でやめ、三味線を中心としながら日常生活の全般に興味をもち、それぞれを修徳していく。
昭和34年の19才より池袋の天才少女と騒がれ、三味線の弟子をとりはじめる。
昭和35年東海テレビでレギュラー番組をもつようになり、芸と文化を考える“於晴会”を結成する。
翌36年、桃山流を創立、家元となり、江戸初期の復原曲を中心とした流の構成を確立する。この頃、新内の岡本文弥氏の随筆にモデルとして登場。これを読んだ安田武氏が興味をもち取材、「思想の科学」誌に“桃山晴衣”として掲載され話題となる。
この頃より古典にあこがれ宮薗千寿(現人間国宝)に入門。その後、宮薗千寿氏生涯でただ一人といわれる内弟子となりさらに芸を磨く。
昭和50年「古典と継承シリーズ」を三回にわたって公演。この時以来年一回、東京、大阪、名古屋で自主公演を発表する。同年「婉という女」「雪女」の新作を発表。
この頃より邦楽界の現状に疑問をもち、音楽が生まれた状況、音楽が生きていく状況を探すため、各地の子守唄、古謡、わらべうたを調べはじめる。さらに明治・大正演歌を添田啞蟬坊の子息知道氏につき学ぶ。
同年桃山流家元をやめ桃山晴衣個人となる。
現代は人間としてのコミュニケーションがなくなっているのが、現在の文化を考察する上で一番の問題点であると考え、グループの作り方、あり方について皆でディスカッションをして運営していく人間集団として於晴会を転換し、機関誌「桃之夭々」(もものようよう)を発行。
昭和52年より、畑を耕やし自給自足生活を志ざし今日に至る。

(1981年[昭和56年]発売のLP『遊びをせんとや生まれけん〜「梁塵秘抄」の世界』ライナーノーツに掲載された「桃山晴衣プロフィール」)

桃山晴衣さんの著書は『恋ひ恋ひて・歌三絃』筑摩書房)と『梁塵秘抄 うたの旅』青土社)の二冊がありますが、それ以外に何種類もの機関誌を発行されていて、また雑誌やイベントでの対談記録も数多くあります。桃山さんが残したものは、音だけでなく文字のかたちでも今後多くの示唆を与え続けてくれるのではないかと思います。

(以下の画像の真ん中にあるのは機関誌「桃絃郷 2006年3月」。この頃、桃山さんはブログ「桃山晴衣のあいあい録」も開設しますが、丁度『梁塵秘抄 うたの旅』の執筆に全力を注がれていたせいか、あまり更新はされていませんでした。「桃絃郷 2006年3月」表紙の下に写っている立光学舎の茅屋根は、つい最近解体されました。 →土取利行ブログ「音楽略記」


以下は二冊の著書の目次。(画像をクリックすると拡大表示されます)
 

ウェブサイト「JAZZTOKYO」に私が書いた『梁塵秘抄 うたの旅』(青土社)の紹介文。→

桃山晴衣さんについては、以下のオフィシャル・サイトをご覧ください。
「桃山晴衣のうた語り」

(堀内)