じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

中山音女のSP盤 その後


(2010年12月24日読売新聞 文化欄 掲載記事)


10月15日付けの当ブログ(「情報求む=奄美しまうた・幻のSP盤」)、12月24日付けの読売新聞全国版・文化欄(上に掲載した記事)で、情報提供を呼び掛けてからというもの、本当に多くの皆様からさまざまなアドバイス等をいただきました。心から御礼申し上げると同時に感謝申し上げます。しかしながら、今現在、決定的といえる情報は入手できておりません。
本日は「年末ドタバタ調査報告記」と題して、現状をお伝えしたいと思います。

「そこに置いてある五〜六千枚のSP盤は未整理のままなので、何があるのかわからないけれど、もしこの中にあると信じて探したいのなら、構わないよ」。こう資料室の方から言われたのは、12月22日。もしかしたら田辺秀雄先生のコレクションの中に紛れているのではないかと尋ね廻る中で、町田佳聲先生のコレクションを探してはどうかとアドバイス下さる方があり、民謡協会を訪ねた時のことであった。様々な目録を探しても見つからず、やっぱり駄目かぁと思っていた矢先のことだ。
「さッ、探させて下さい!」。SP盤専用としか思えない整理棚が18棹。1棹に、300枚強のSP盤がきちんと引出しにしまわれている。聞けば、「追分」に興味も持った千葉の民謡コレクターの方からの寄贈品とのこと。
年末ということもあって、割ける時間には限りがあり、一日に数時間ずつの調査の中で、トンボ印のレーベルはときどき見受けられるものの、「中山音女」の文字は見当たらない。そもそも、トンボ印のレーベル・デザインは2〜3タイプあって、おそらく制作年代が異なるのであろうということが容易に想像される。あの見慣れたトンボ印はそうは簡単に見つからない。
調査2日目の24日、クリスマス・イブ。寒い資料室で、黙々と作業する中、頭も目もいい加減ぼーっとしてきたところに、またしてもトンボ印が目に入った。「K-9 クルダンド 唄 大島一番 中山音女嬢」。
「ああ、こんなところにいたか! アイタカッタ!」と思った。既に入手している盤ではあったが、いとおしくて紙袋から出して眺めまわした。素人目には決して良好とは思えなかったが、それでもこちらの盤の状態のほうがよいかもしれないので、資料室の方の許可を得るために取り置いておいた。俄然やる気になって、引き続き調査を続けたが、全部の棚を調べ終わらないうちに時間切れ。仕事納めの閉館時間になってしまった。年明け早々から、引き続き残りの棚を調べさせていただくことになった。残りは8棹、結果がどうなるのかはわからない。新年も私的にはこのドタバタが続く。CD発売の折には、皆様への感謝と共にこのような探索状況なども少しばかり書き添えて、記録にしたいと思っている。
 資料室で、腰をかがめて数百という引き出しを出し入れするたびに、ふと、今年2月3日にSP盤アーカイブ調査のために訪れた「レ・コード館」(12月26日の当ブログ参照)でのことを思いだした。「全国から、捨てるのは忍びないといってたくさんのSP盤、レコード盤をここに寄贈してくださるんですが、それを整理して目録をデータ化する作業はあまりにも膨大で、まだまだ未整理のものが山のようにあるんですよ・・・」。音女さんのSP盤も、もしかしたら未整理のどこかの山のような資料の中に埋もれて眠っているのかもしれないなあ、そう思わずにはいられなかった。

中山音女(なかやま・おとじょ):経歴
明治24(1891)年〜昭和45(1970)年。鹿児島県大島郡宇検村湯湾生まれ。幼いころから歌が上手で、大人たちを驚かせたと伝えられる。同郷で理髪業を営む中山安元と結婚。家庭人となってから、いよいよ“うたしゃ”としての名声が広がり、昭和初期(3年頃?)に、三味線の直伝次郎(すなお・でんじろう)と共に、山キ商店が委託製造したSP盤(トンボ印ニッポンレコード)にその歌声の記録を残している。以後、奄美本島以外に徳之島、喜界島、沖永良部島与論島などにも出かけて活動。昭和30年代には往年の名人と称せられる演者と共に民謡大会などにも参加し好評を博した。

日本伝統文化振興財団 

情報提供・連絡先:メール

(やちゃ坊)

●追記:ご報告
残念ながら探していた4枚のSP盤は見つかりませんでした。当初の予定通り、現存する14枚のSP盤のみによるCDの制作作業を開始しました。4月発売予定です。詳しくは 2011年2月16日のブログ記事 をご覧ください。(事務局:堀内)

発売日延期のお知らせ】(2011. 3. 23)
制作進行に遅れが生じたため、本作の発売日を5月11日に延期させていただきます。