じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

歌は自由をめざす!

昨日の当ブログの話題は小唄でしたね。いま、土取利行さんのブログでは桃山晴衣さんの軌跡を辿る連載が進行中ですが、最新更新(4/14)がちょうど小唄を扱っています。→ 「桃山晴衣の音の足跡(17)小唄の流れ」(土取利行ブログ<音楽略記>)

そこでは、小唄の歴史がとても分かりやすくまとめられています。清元お葉が創始した江戸小唄が、明治期になると愛好家の層が広がり、富豪の通人や花柳界の人々などによって、上方系の端唄までが江戸小唄の様式でうたわれるようになり、「内容も男女の情痴話ばかりでなく、洒落、悪摺風(ゴシップ)、風刺、辛辣さなどをもりこんだ唄も増えてくるが、こうした変化が目立ったのが明治の中期から末期にかけてで、英十三氏はこれを<小唄の完成期>と考えている」。

英十三(はなぶさ じゅうざ 1888−1966)さんは大正・昭和期の邦楽研究家で、土取さんと共に活動した三味線・歌手の桃山晴衣さんとも交流がありました。土取さんのブログから、この英十三さんの説に従ってまとめた小唄の完成期の特徴をご紹介します。

1. 歌詞が短章で唄のテンポが早い。端唄も歌沢も歌章は短かったが、テンポの速さは小唄に劣った。その理由は小唄が三味線の間に唄をもり込んでいくことが因で起こる差で、一時期小唄は早間小唄ともよばれていた。

2. 歌詞の取材の変化が大変広くなり、唄に変化がでてきた。(江戸向き、上方系、地方の俚謡、演劇映画小説から時の流行までをとりいれた歌詞)

3. 明治から大正中期以後にかけて著しく唄の数が増えていく。大正初期には245章だった唄が500以上に増え、今日では1000章を越えるのではないか。(これは端唄、歌沢でうたわれた歌を小唄の手法でうたうようになったことも一因としてあげられるが、吉田草紙庵、春日とよ、佐橋章子、永井ひろ他、多くの作曲家による夥しい新作が登場したことが第一因)

4. 近世の小唄愛好家の増加の因としては、ラジオの放送、レコードの吹き込み、小唄振りという舞踊との結びつきなどが考えられる。


文中に出てくる小唄関係者の作品は、当財団から発売している小唄カセットやCDで聴くことができます。ぜひ、当財団ホームページ「じゃぽ音っと」検索画面()をご活用ください。


ところで、土取さんのブログでは「復興節」への言及があります。英十三さんは、小唄が関東大震災を境に変わっていったと述べていますが、この変化は、復興節などを生んだいわゆる「演歌」の世界にも共通して起こった、いわば音楽をとりまく社会生活の大きな変化に関わるものだったのかもしれません。

「演歌」が被った変化とは、まずラジオ放送の開始で多くの人に同じ歌が届くようになって辻々や街角で歌う演歌師の存在価値が薄れていったことであり、また昭和2年のビクターとコロムビアの創業によって、歌が「はやる」ものから「はやらせる」ものに変わり(つまり音楽の産業化)、それまでの「音楽」や「歌」の内実に変化が生じたのです。以下は大変貴重なCD復刻盤『街角のうた 書生節の世界』(大道楽レコード DAI-005 廃盤)です。

「演歌」とは、元々は、明治後期に書生風の人々が社会への啓蒙や風刺を節づけして演説したものに端を発し、「壮士節」や「書生節」とも言われるものです。上記CDは、大正中期からのSP盤録音から復刻した貴重なもの。後に中山晋平の「船頭小唄」など三拍子のリズムや哀切な情感を込めた風潮が増していき、昭和に入っての商業音楽の流れにものって、現在の「演歌」へと変質していきます。つまり創成期の「演歌」は、昭和のはじめには衰退の途をたどります。

しかしこの元々の「演歌」には、後の「はやらせる」歌にはない、もっと逞しい地に足のついた歌の魅力がありました。そうした「演歌」を数々の歌を作って盛り立てたのが、添田啞蟬坊と添田知道の親子です。この木村聖哉さんの著書添田啞蟬坊・知道 演歌二代風狂伝』(リブロポート、絶版)には、二人の歩みが大勢の関係者への取材を通じてとてもよくまとめられています。

同書のあとがきにもあるように、添田知道さんは桃山晴衣さんの「於晴会(おはるかい)」の発足当初から長老として参加していました。桃山さんは日本のオリジナルな歌の源流を探究するなかで演歌と出会い、於晴会では桃山さんが演歌を歌うこともあったようです。土取さんが住む岐阜県郡上八幡の立光学舎(りゅうこうがくしゃ)には、桃山さんが添田知道さんから引き継いだ演歌関係の資料が沢山残っていると伺いました。

その立光学舎から、来る5月3日(火・祝)、立光学舎での、岡大介さんによる「ニッポン音楽復興節」というスペシャル・ライブのお知らせがありました。岡大介さんは1978年生まれですが、添田啞蟬坊や添田知道の歌をはじめ明治大正演歌から、初期の昭和歌謡までをレパートリーにもつ歌手で、その歌は2枚のCDでも聴くことができます。以下は2008年リリースの1枚目『かんからそんぐ 添田啞蟬坊・知道をうたう/岡大介、小林寛明』。新緑に溢れた季節、清流吉田川の隣に建つ立光学舎でこうした歌が聴けるとは、桃山さんもきっとお喜びになっていることでしょう! ライブの詳しいお知らせは土取さんのホームページ()および土取さんのブログ記事にて()。

岡大介さんのホームページ →


このアルバムに収録されている多くの歌は、キングレコードからリリースされている『啞蟬坊は生きている』という1973年のオムニバス・アルバムでも聴くことができます。本作は2008年にCD復刻されましたが、LPレコードでB面最後に入っていた「金々節」(歌・小沢昭一)が、なぜかCD化に際してカットされています。小沢昭一さんの意志ではないそうです。何か他の事情があったのでしょうが、ちょっと残念ですね。



東日本の未曾有の大災害では、少しずつですが復興への動きを伝えるニュースが届くようになりました。わたしが思い出すのは、阪神大震災のときに被災地に住む人々のためにコンサートを続けたソウル・フラワー・モノノケ・サミットのことです(ソウル・フラワー・ユニオンの、チンドン楽団別動隊といってよいでしょうか)。彼らが神戸で歌ったのが、「復興節」をはじめとする明治・大正期の「演歌」でした。下のアルバムは、アジール・チンドン/ソウル・フラワー・モノノケ・サミット(1995)。


彼らは阪神大震災後も数年に渡って被災者支援のコンサートを続け、その模様はYouTubeの動画などでも見ることができます。


ソウル・フラワー・ユニオンの音楽は、演歌(書生節)、チンドン、日本各地の民謡、大衆歌謡、アイリッシュ・トラッドやロマ(ジプシー)などの音楽がふんだんにミックスされ、人々に伝えようという歌の楽しさと力に溢れています。そこには、産業化されもっぱら鑑賞用になってしまった音楽からは失われてしまった、人間の心の底から沸きおこる「歌」が変わらずに脈打っています。以下の動画は、「SOUL FLOWER UNION - 海行かば山行かば踊るかばね」。わたしはこの曲が大好きです。


そして2009年のフジロック・フェスティヴァルでは、ソウル・フラワー・ユニオンのステージ終了後に、会場の人々が集っていつまでも歌い続けました。「苗場からうたは自由をめざす!@Fuji Rock '09 ソウルフラワーユニオン」。ここには、真の音楽が息づいているように思います。


(堀内)