じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

映画「イヨマンテ──熊おくり」


今日6月29日から7月3日までの5日間、民映研民族文化映像研究所)の初期(昭和50年代以降)の映画6作品の上映会が原宿キネアチックで開催されます。題して、「みる・きく・感じる 映像みんぞく学 〜昭和に忘れてきた、懐かしくて新しい日本〜」。特設ブログは以下です。

みる・きく・感じる 映像みんぞく学
上映予定は以下です。

6月29日(水) 「イヨマンテ─熊おくり─」
6月30日(木) 「アイヌの結婚式」&「奥会津木地師
7月1日(金) 「周防猿まわしの記録」
7月2日(土) 「豊松祭事記」
7月3日(日) 「椿山 〜焼畑に生きる」

定員 38席。料金は各日とも1000円。
各夜午後8時上映開始(一日一回レイトショーのみ)。


姫田忠義さんを所長とする民族文化映像研究所は、「日本の基層文化を映像で記録・研究している民間の研究所です」と自己紹介されている通り、幅広い映画・映像作品によって世界的評価を獲得されています。その映像作品は、ドキュメンタリーであることを越えて、観る人に日本の基層文化について深く自省させる力をもっています。つまり、自然との共生や、あるいは自然と応対する作法を通じて生まれてくる社会の姿、そして生活における民俗芸能文化といった、これまでの日本の歴史において長い時間をかけて積み重ね継承されてきた、いわば暮らしの価値観の根幹となる大切な部分が、急激な西洋化と近代化以降、現代の日本から急速に失われつつあること、あるいは既に都市生活においては失われてしまったことを、視覚表現ならではの説得力と喚起力を駆使して強く訴えかけてくるのです。詳しくはぜひ民映研のホームページ()をご覧ください。姫田忠義さんの著書、岩波ブックレット『忘れられた日本の文化―撮りつづけて30年』(1991年)もお薦めです。

今日の上映作品は、『イヨマンテ ─熊おくり─』(1977年、103分)。日本映画ペンクラブ推薦、1989年第3回イタリア・フェルモ国際北極圏映画祭「人類の遺産」賞、1991年第5回エストニアペルノー国際映像人類学祭最高科学ドキュメンタリー賞を受賞しています。民映研の作品はすべて16ミリフィルム作品ですが、今回の上映では新しくテレシネ(ビデオ化)してDVCAMというテープで上映されます。これが、どんな効果を見せるのかも期待しつつ、初日に足を運びましたが、色彩の鮮やかさに驚きました。30数年前とは思えない、まるで今この瞬間、自分もその映像の風景のなかに溶け込んで、一緒にその場にいるような異様な臨場感を味わいました。

(それは、厳密に言うと、「私」が私であることを越えて、何十年、何百年前の誰かである「私」となって、営々と流れる自然のなかで展開される日々の暮らしの内部に触れていることを「実感している」状態だったのですが、この説明はちょっと難しいのでここまでにしておきます。しかし、じつに強烈な体験でした!)


そして、この映画はもうひとつの点でもわたしにとって特別な存在でした。というのも、2008年に制作を担当して当財団から復刻したCD『熊送り ─ 神と二風谷アイヌの語らい』が、まさにこの映画と同じ1977年の二風谷(にぶたに)での熊送りを取材したものだったからです。CD化を進めるなかで、当然この映画の存在については資料を読んで知っていましたが、肝心の映画は未見でした。昨年秋、川崎市市民ミュージアムで上映された時に見逃していたので、今回ようやく観ることができて感激しました。以下は北海道沙流郡平取町二風谷を流れる冬の沙流川の写真です。「熊送り」は寒さの厳しい2月末から準備が始まり、3月始めに行われます。


今年(2011年)の春には、上記『熊送り』のオリジナル・レコード盤(1978年4月にキングレコードから発売)の制作を担当された元キングレコードの伝統音楽担当ディレクターだった満留紀弘さんからお手紙をいただき、このときの二風谷での沢山の記録写真や記念のムックリなどを贈っていただいたこともあって、なおさら今回の映画を深く受け止めることができたようにも思います。

明日からの上映作品も、上記の特設ブログを見ていると、どれも強く関心を引かれるものばかりです。この貴重な機会にぜひ多くの方に民族文化映像研究所の素晴らしい作品群をご覧いただきたいと思います!

YouTubeで、今回上映される各作品の予告編映像を観ることができます(YouTubeチャンネル「民映研プレス」→ )。以下は、「6月29日上映の「イヨマンテ 〜熊おくり」(1977) 予告編 民映研作品」です。



ところで、上映会場の「原宿キネアチック」()ですが、じつは数年前に当財団の事務所があった建物のすぐ脇にあるのだと知ってびっくり。あの頃・・・、わたしたちの事務所はビルの地下にあって、光は入らず、携帯の電波も届かず、外を走る消防車のサイレンも聞こえないまるで洞窟の中にいるようで、酸素の量が少なくてときどき地上へ出たりして・・・。まあ過ぎてしまえば、貴重な体験だったのかもしれません。

(堀内)