じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

「ごぜ唄が聞こえる2013」に行ってきました!

昨年の12月に当ブログでご案内しておりました「ごぜ唄が聞こえる2013」に、先週の土曜日に行ってまいりました。〔当ブログ過去記事→ 「ごぜ唄が聞こえる2013」(2012年12月05日)

会場のブローダーハウスは、都内にある演劇用の小劇場なのですが、「ごぜ唄が聞こえる」は、オーナーの荒木明子さんが、年に1度、これだけは自ら企画・制作を手掛けるという、肝煎りの公演です。2007年から始まって2009年からは毎年開催され、今回が6回目を迎えます。来場者の中には、第1回から毎回通ってくる方、遠く岡山県奈良県京都府山梨県、長野県、福島県などから来る方もあるそうです。
私は、この会場へ伺うのは今回が初めてなのですが、ごぜ唄を披露してくださる萱森直子さんとは、じつは、今を去ること15年前からのご縁。1997年、新潟市民芸術文化会館りゅーとぴあ」杮落し公演「ユーラシア・オデッセイ」の企画に私が携わった際に、ぜひ、ごぜ唄を採り上げたいと思い、紹介者を経て萱森さんのお宅まで取材に伺い、当日は世界各国の歌い手とともに萱森さんに出演していただいた記憶があります。
それ以来、いつも萱森さんからご案内をいただきながらも雑事に忙殺されて時は流れ、このたび、ついに15年ぶりに、萱森さんと、ごぜ唄と、再会することができました。
この日のプログラムは、初めてごぜ唄に触れる人にも楽しめるように考えられた構成で、萱森さんご本人による解説の時間もたっぷり取られていて、お話も楽しむことができました。
ごぜ(瞽女)とは、三味線を携えて農村・山村を訪ね歩いた、目の不自由な女性の芸人さんのことで、かつては、越後(新潟地方)だけでなく、ほぼ日本全国(北海道と沖縄を除く)にその姿が見られたそうです。ごぜさんが来た時に宿泊していた「ごぜ宿」と呼ばれる家は、最盛期には全国に数百を数えたとか。他に娯楽のなかった農村・山村の人々にとって、ごぜさんの唄は、待ち焦がれる楽しみであり、貴重な情報源でもあったようです。ラジオ・テレビの普及によってその数は減り、ついに長岡ごぜ(新潟地方にあった2つの大規模なごぜ集団の1つ)最後のひとりとなったご高齢の小林ハルさんを、萱森さんは高齢者福祉施設に訪ねて、ごぜ唄の手ほどきを受けました。

ごぜさんへの大きな敬意と愛情を持って、小林ハルさんから学び取った音楽を忠実に再現している萱森さん。第1曲は、ごぜさんが集落に到着した時に歌う“門付け唄”のひとつ「瞽女松坂」でした。掛詞の入った、ちょっと艶っぽい、ちいさな唄。この唄が聴こえてきたときの、集落の人々の心のときめきに、ふっと想いを馳せました。
ごぜ唄で最もメインとなっているレパートリーは、“祭文松坂”とか“だんもん(段物)”と呼ばれる、長大なストーリーの、語りの要素の強い唄です。この日は、文楽の演目「傾城阿波の鳴門」として知られる物語が題材になっている「巡礼お鶴」全四段から、一の段と二の段をご披露いただきました。
文楽の舞台では、義太夫節は「床本」と呼ばれる台本を前に演じられますが、ごぜさんたちは最初からすべて暗記ですから、そう考えてみると、とてもすごいことに思えてきました。太古からの口頭伝承という方法が、息づいていたのですね。
よく聴いていると、唄の節回しも、三味線の手も、基本的に同じ音型の繰り返しなのですが、にもかかわらず、しかも、ストーリーを既に知っているにもかかわらず、ぐいぐいと引き込まれてしまいます。演奏を終えて萱森さんが三味線を置くと、客席には涙を拭う人の姿も。
一の段と二の段の間に、“出雲節”「梅の口説き」という、ちいさな楽しい唄を1曲、そして終曲には、“たち唄”(次の場所へ旅立つときの唄)として、高田ごぜ(新潟地方にあった大規模なごぜ集団のもう1つ)に伝わる「しげさ節」を聴かせてくださいました。萱森さんは、小林ハルさんと同じ施設に入所された、最後の高田ごぜの杉本シズさんからも、教えを受けていたのです。「しげさ節」は、しっとりとした趣のある唄でした。

終演後は、萱森さんのアフタートークがありました。ごぜさんの生活のこと、三味線のこと、節回しのこと、お稽古のこと…などなど、聴衆からのどんな質問にも、誠実に答えてくださる萱森さん。トークの後も立ち去りがたく、個々に話しかける人、一緒に写真を撮る人の姿もありました。
出演者と制作者と聴衆との想いが、ほんわりと集まった、すてきなひとときでした。

萱森直子さんのホームページ ごぜ唄とごぜさんについての情報がどっさり!「CDのご案内」では試聴もできます
ブローダーハウス定例公演「越後ごぜ唄」のサイト 第1回からの記録が載っています

(YuriK)