じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

ワーグナー『パルシファル』METライブビューイング

今年はワーグナーヴェルディの生誕200周年のため、全国(世界)各地でこの二人の作曲家を特集したイベントやコンサートが企画されていますね。
JALANAの国際線での機内エンターテインメントでも4月・5月のクラシックにワーグナー生誕200周年が特集されていました。その中には、ワーグナー歌手、ヨナス・カウフマンテノール)のアリア集CD「ワーグナー・アリアス/KAUFMANN WAGNER」もあったようですね(ANAのHPにリンクされていた機内エンターテインメントのWEBパンフレットで知りました)。



先月のことになりますが、カウフマンが主役を務めるワーグナー「パルシファル」をMETライブビューイングで鑑賞しました。

指揮:ダニエレ・ガッティ 演出:フランソワ・ジラール
出演:ヨナス・カウフマン(パルシファル)、カタリーナ・ダライマン(クンドリ)、ペーター・マッテイ(アンフォルタス)、ルネ・パーペ(グルネマンツ)、エフゲニー・ニキティン(クリングゾル
[ MET上演日 2013年3月2日 ]

こちらの公式サイトにあらすじが掲載されています。
1_2_Mattila_Karita_headshot_2002_lauri_eriksson | 演目紹介 | METライブビューイング:オペラ | 松竹
METライブビューイングとは? | METライブビューイング:オペラ | 松竹

「パルシファル」は、1883年にヴェネチアで亡くなったワーグナー最後の作品であり、「舞台神聖祝典劇」ということになっています。ワーグナーの存命中と死後30年の間は、バイロイト祝祭歌劇場だけの独占上演でした。METライブビューイングの日本語表記は「パルシファル」となっているのでそのまま表記させていただきますが、多くの著書やメディアでは「パルジファル」と表記されていますね。

以下はWikipediaより

原作及び「パルジファル」の表記について
パルジファル』の台本は、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ叙事詩『パルツィヴァル』及び『ティトゥレル』に基づいている。『パルツィヴァル』は、歌劇『ローエングリン』でも原作として採られており、『ローエングリン』第3幕で、ローエングリンは、モンサルヴァート城の王パルツィヴァル(Parzival)の息子であると名乗る。パルジファルが白鳥を射落として引き立てられてくることと、ローエングリンが「白鳥の騎士」であることの関連は明らかであろう。ほかにも、各幕の構成や、『パルジファル』のクンドリが『ローエングリン』のエルザとオルトルートを合わせたような存在であることなど、二つの作品は関連が深い。
パルツィヴァルの名前の語源として、アラビア語のパルジ(清らか)+ファル(愚か)であるとするヨーゼフ・ゲレスの説を取り入れて、ワーグナーはParsifalに綴りを直したとされる。晩年、ワーグナーが親密に交際したジュディット・ゴーティエは、この説を誤りだと指摘したが、ワーグナーは「そうであっても構わない。」として訂正しなかったという。現在では、パルツィヴァルの語源としてperce(貫く)+val(谷)、すなわち「谷を駆け抜ける者」が有力である。

解釈について
パルジファル』の題材となった聖杯伝説は、キリスト教に基づく伝説である。だが、『パルジファル』は、誘惑に負けたアンフォルタスの救済が、単に純潔というだけでは達成されず、共に苦しんで知を得る愚者によってなされる、という「神託」の実現が物語の中核をなしており、キリスト教的というより、むしろ独自の宗教色を示しているといえる。
本作に登場する聖杯騎士団やクンドリやクリングゾル、聖杯(グラール)と聖槍(ロンギヌスの槍)など各モチーフについても、多義的な象徴性を持っていて、さまざまな解釈がある。とくに、最後を締めくくる「救済者に救済を!」という言葉は逆説的で、議論・研究の的ともなってきた。具体的には、本作で救済されるのは、アンフォルタスとクンドリ、それに聖騎士団ということになろうが、アンフォルタスらは聖杯の「守護者」ではあっても「救済者」とはいえない。では「救済者」とは、彼らを救済したパルジファルのことであろうか、それとも、イエスその人であろうか、はたまた作曲者のワーグナー自身であろうか、といった様々な解釈が考えられる。また、「救済」そのものについても、各種の説がある。例えば、救済ですべてが解決するのではなく、救済者もまたいずれ救済を必要とするようになるという「運命論」的考え方もある。
ワーグナーは、キリスト教の起源はインドにあり、この純粋な「共苦」(Mitleid)の宗教をユダヤ教が「接ぎ木」をして歪めたという問題意識を持っていた。 後にハルムート・ツェリンスキーは制作当時の彼の書簡や日記を丹念に分析し、この「救済者」とはキリスト(教)のことであり、救済とはキリスト教に加味された不純なユダヤ的要素を祓い清めることを意味していた、と結論づけた。 いずれにせよ、音楽、文学、神話、宗教、哲学、民族などについての幅広いワーグナーの思索活動が、広範で多層的な解釈を呼び起こしているのである。

「聖なる愚か者」であるパルシファルは、知識を得ると自ら戦争に行って命を落とすことを心配した母親によって無垢な青年に育てられました。仏教用語でいうならば「無我の境地」とでもいいましょうか?この青年が旅による苦行で「開眼(かいげん)」し、王の苦悩を共感できる「救済者」になります。開眼前と後のハッキリとした違いの役作りをカウフマンは上手く体現していたと思います。
第2幕の花の乙女達の誘惑に打ち勝って悟りを開くパルシファル。ぼんやりとした視線の青年が、その後の第3幕では、目に光のあるしっかりとした人物となり、歌い方、発声の仕方も変わったように思います。この作品は、幕切れのコーラスの「救済者に救済を!」という台詞(歌詞)がほんとうに印象的でした。

さて、堀内修著『ワーグナー』(講談社現代新書)によると、ワーグナーは女性問題が多かったようですね。同著の45ページにこのように書いてありました。
ヴェネチアでの最後の日、〈パルジファル〉で花の乙女の一人を歌った若い歌手を呼び寄せてしまった件で、妻コージマと争い、その興奮が死を招いたという説があるが、これはどうも本当らしい。」
皮肉にも彼が最後に作り上げた主人公と正反対なので笑ってしまいました。

ところで、今回のジラール演出の「パルシファル」での花の乙女達は、髪型といい、衣装といい、現在日本で最も有名?なオカルト映画の女性亡霊にそっくりでした。テレビ画面から出てくるアレです。バックステージでのインタビューでも、第2幕を「東洋的な演出にした」というようなコメントをしていたので、やはり、意識したのかなぁ?と、つい、思ってしまいますw
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/classic/cldisc/20130418-OYT8T00622.htm

(J)