じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

洋画家・須田国太郎が描いた能「野宮」

大正から昭和初期にかけて、邦楽界では宮城道雄らが西洋音楽の影響を受けて新しい日本音楽の創造に取り組んでいた。同じころ美術の世界において「東西の絵画の綜合」というテーマを掲げ、日本の精神文化に根ざした独自の油彩画を追求する一人の画学生がいた。のちに洋画家として大成する須田国太郎である。
このほど東京・世田谷美術館で始まった巡回企画展「生誕130年没後60年を越えて 須田国太郎の芸術〜三つのまなざし 絵画・スペイン・能狂言」では、須田の作品の中でも能・狂言に関連する作品がクローズアップされるとあってさっそく訪ねてみた。
須田は京都帝国大学と大学院で美学・美術史を研究した後、1919年(大正8年)、28歳のときに渡欧。スペインのマドリードを拠点に西洋絵画の理論と画法を学んだ。一方で、文化芸術の庇護者としての役割も果たしていた近江商人の商家に生まれ、幼少のころから能・狂言の世界に親しみ、自ら謡曲を習っていた。会場を見て回ると、骨太で重厚な暗い色調を基調とする風景画が並ぶ中、水色と赤を配し繊細な筆致の能「野宮」のシテを描いた油彩画が異彩を放っていた。6000枚を超える能のデッサンを残したという須田の並々ならぬ思いが伝わってくる。今回展示されている限られた枚数のデッサンには、描かれた年代は異なるが同じく「野宮」のシテの身体の連続した動きがまるでストロボ写真のように捉えられている。瞬間を描いた画に動きが見えるのはこうしたデッサンの鍛錬によるものだろう。西洋絵画の技法と日本文化が内包する「気」が融合した本作に須田が目指した東西絵画の綜合を見る思いがした。
今回の企画展では、カメラの心得もあった須田が撮った写真も展示されている。その中で目を引いたのが《マドリ市中にて》と題するスペイン・マドリード市内で撮られた一枚。連れ立って歩く二人の婦人を後ろから撮ったもので、本人によるキャプションには「二人の婦人の服装はサラマンカというところの特色あるもの」とあるが、これはヒターノ(スペイン語でジプシー(ロマ)のこと)の女性だと思われる。サラマンカはスペインの中でもヒターノが多く住む町として知られることから、マドリードの人々の間では当時隠語のようにこの地名が使われていた可能性がある。わざわざ後ろから撮ったのは、西洋人とは明らかに異なる風貌に惹きつけられながらもある種の恐れを感じたのかも知れない。ジプシー(ロマ)という人々の存在が日本で知られるようになるのは西洋事情が新聞や雑誌を通じて伝えられるようになった明治の半ば以降のこと(「ジプシー」を世界的に知らしめることになるオペラ「カルメン」の日本での初演は大正時代になってから)で、スペイン留学時の須田にとっては謎に満ちた異邦人だったに違いない。絵画の勉強以外にもこうしたさまざまな体験から得た幅広い知識を持ち帰ったであろうことが伺える。そして、それらがのちの作品に生かされていったことであろう。
作品を見終わると、出口のところで、ご子息の須田寛さんが思い出を語るビデオの上映コーナーが設けられていた。内容は控えるが本企画展に来てこれを見ずして帰ってはあまりにももったいない、とだけ申し添えておこう。

(茶目子)
 
後日談:写真に写った二人の女性がジプシー(ロマ)ではないかという見立てについて、西洋史がご専門の先生に伺ったところ「服装の装飾などから見てそうとは言えない」とのご教示をいただいた。15世紀にスペインを含む西ヨーロッパに到達し、音楽や踊りなど独自の文化要素が各地の文学や音楽に影響を与えるまでの存在になっていたジプシー(ロマ)と須田の邂逅があったか否か。もはや確認する術はないが、全く視野に入らずに帰国したとも思えず、能の舞を熟知した須田のその後の創作への影響など興味は尽きない。