じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

伝統邦楽は日本人だけのものか〜フランスにおける邦楽教育実践

伝統邦楽を含む日本の文化がその気候風土や大陸との位置関係など世界的に見て固有の環境によってもたらされたものであることは間違いありません。

言語学者池上嘉彦氏は日本語の特徴を〈主観的事態把握〉、つまり見たものをそのまま「私は」と言わずに言語化するという身体性に密接に結びついたモノローグ的な性格に求め、発話する自分自身を上から(客観的に)見て「私は」と言語化する〈客観的事態把握〉を特徴とするヨーロッパ、インドあるいは中国の言語と対比させています。こうした違いは、地続きの大陸においては土地の領有をめぐる民族間の争いの長い歴史の中で言語の独自化が起こったのに対して、島国日本では比較的平和な時代が長く続いたことで人類が原初的な段階で使用していた言語の姿が保たれたことが一因として考えられます。池上氏は日本語話者の〈主観的把握〉へのこだわりが言語を媒介とする表象行為に限らず、屏風図の非遠近法的描き方や廻遊式庭園など広く文化にも及ぶことに触れていますが、このことは邦楽、マンガやアニメにも当てはまるでしょう。

以上、前置きが長くなりましたが、人類の原初的な性格を今に残す日本文化は世界のどの国の人にとってもその心の奥底に眠る感性を呼び覚ましてくれる魅力があり、共感と理解が可能なものであると言えます。伝統邦楽の未来を考える時、「外国人にはわからないだろう」などと偏狭な日本文化特殊論に陥ることなく、地道にその魅力を伝える努力が重要です。そして、それを実践している方にフランス在住の箏演奏家・作曲家のみやざきみえこさんがいます。先日、そのみやざきさんから以下のメッセージと共に近況を伝える動画が送られてきましたので、ご紹介します。

「私が教鞭を取っております日本音楽のクラスの活動を、ユーチューブ動画に投稿致しました。このクラスは皆様方の多大なご協力により2021年にパリ近郊ジャンティー市に立ち上げた、公立教育機関のクラスです。先日4月11日、近隣の町でのイベントにクラスで出演した際、アンコールに「ボレロ」を演奏しました。今年はモーリス・ラベル生誕150周年に当たります。天才作曲家の傑作を三曲合奏に編曲し、3ヶ月の練習を経て生徒さんたちに弾いてもらいました。」

https://youtu.be/rYj7M0TuWGM

なお、みやざきみえこさんは当財団が行う「伝統邦楽グローバル・チャレンジ」の外部審査員のお一人です。

(茶目子)

〈もののあはれ〉と伝統邦楽の未来

江戸時代の国学者本居宣長は『万葉集』や『源氏物語』などの研究を通して〈もののあはれ〉こそ中世日本文学の本質であると看破した。それは四季の変化が織りなす自然との共生の中で日本人が長い時間をかけて育んできた独自の感性であり、理性的な説明よりも本能的な感覚や直感を重んじる美意識である。したがって言葉によって定義することは無粋なことだが、手許の古語辞典によれば「物事に触れて起こるしみじみとした感情。自然・人生に対していだく喜び・悲しみの情趣」とある。桜の花びらが散るさまや雲に隠れる月、かすかに聞こえる虫の声、あるいは老いて滅びゆくもの、敗れたる者などに触れて生じる心の動き、一種の感動と言ってもよい。

この情緒、美意識は文学・文芸のみならず邦楽や茶道、華道など日本の伝統文化全般に通じるものがある。邦楽に関して言えば、手付や節回しの妙に加えて、太鼓の音で川の流れや雪の降る情景を表したり、三味線で虫の声を表現したりする。また、弦を弾いたあとの音の減衰(余韻)、弦を指や爪で擦って出す楽音ではない音、あるいは指揮者不在で合奏を可能にする間合いや呼吸の用い方など、それによって生じるしみじみとした感動という点で、〈もののあはれ〉の聴感的体験と言うことができよう。

こうした感覚は現代の日本人にも確実に受け継がれているのだが、自分自身ではなかなか自覚できないという面がある。なぜなら、それは感じるものであって、言葉で説明したり、わざわざそれに言及したりするものではないからだ。このことは、身近な例として訪日旅行者が日本に来て面白がることがわれわれ日本人にはピンと来ないという現象にも表れている。たとえば、東京・渋谷駅前のスクランブル交差点。そこを行き交う人々の姿は日本人にとっては極々当たり前の風景だ。しかし、信号待ちをしていた大勢の人が四方向から一斉に歩き出しても肩をぶつけたり避けたりすることなく整然とすれ違う様が外国人には驚きらしい。そしてそこに感動を覚えているのである。指揮する者がいなくてもお互いが呼吸をはかり(間合いをとり)ながら集団で一つの行為を完遂することができる国民性には〈もののあはれ〉に通じる日本人独特の心性が隠れている。

伝統邦楽の未来を考える時、われわれ日本人はもう一度自身の特質を振り返り、それが世界的にみても美点であることにもっと自覚的になる必要はないだろうか。そして、それは日本人だけが理解できるものではなく、異文化を背景に持つ人々にとっても十分共感できるものだということを。作曲家・尺八演奏家の中村明一さんは著書『日本音楽の構造』の中で、日本の音楽は「(人類の)根源的要素を使った、自然、言語と深く通じ合う音楽」であり、それによって「世界の人々はコミュニケーションの幅を広くし、深化させることができる」と述べている。学校で習う五線譜では表せない奥ゆかしくも豊穣なる伝統邦楽の魅力、〈もののあわれ〉を今こそ世界へ。「第一回伝統邦楽グローバル・チャレンジ」募集中。

 

頌 春「伝統を未来に…」

 日本伝統文化振興財団は1993年ビクターエンタテインメント社を基金元として設立され、爾来伝統音楽・芸能分野のCD・DVDの公刊、歴史的音源のアーカイブ化と公開、各種公演、顕彰や演奏会支援による実演家育成、楽器貸出による邦楽教育支援、国際交流など伝統文化の普及、振興に携わって参りました。近年はネットとデジタルの時代に対応した音楽配信事業を立ち上げ、伝統音楽・芸能の継承をより確かなものにするべく努めています。

 

 本年は新しい顕彰制度 《第1回伝統邦楽グローバル・チャレンジ》 を立ち上げ、日本固有の自然と風土の中で育まれ伝承されてきた独自の音楽の魅力を世界に発信することに意欲を燃やす演奏家の支援を始めます。社会の変化が急速に進む今日、伝統を未来につなぐための新たなチャレンジを続けていく所存です。

 

 皆さまにはさらなるご支援ご協力を賜りますよう謹んでお願い申し上げます。

 

   令和7年 元旦

 

公益財団法人日本伝統文化振興財団

理事長 市橋 雄二

                

評議員 田中 隆文

    中島 一子

    西潟 昭子

    藤原 道山

    増渕 保夫

    米川 敏子

 

理事  磯田 浩平

    加納 マリ

    児玉 信

    薦田 治子

    高田 英男

    田畑 英雄

    野川 美穂子

    平原 雅彦

    藤本 昭子

 

監事  渡辺 好史

 

職員  家納 小枝

    私市 智子

    杉村 秀子

 

嘱託  温井 亮

第一回 伝統邦楽グローバル・チャレンジ

 

洋画家・須田国太郎が描いた能「野宮」

大正から昭和初期にかけて、邦楽界では宮城道雄らが西洋音楽の影響を受けて新しい日本音楽の創造に取り組んでいた。同じころ美術の世界において「東西の絵画の綜合」というテーマを掲げ、日本の精神文化に根ざした独自の油彩画を追求する一人の画学生がいた。のちに洋画家として大成する須田国太郎である。
このほど東京・世田谷美術館で始まった巡回企画展「生誕130年没後60年を越えて 須田国太郎の芸術〜三つのまなざし 絵画・スペイン・能狂言」では、須田の作品の中でも能・狂言に関連する作品がクローズアップされるとあってさっそく訪ねてみた。
須田は京都帝国大学と大学院で美学・美術史を研究した後、1919年(大正8年)、28歳のときに渡欧。スペインのマドリードを拠点に西洋絵画の理論と画法を学んだ。一方で、文化芸術の庇護者としての役割も果たしていた近江商人の商家に生まれ、幼少のころから能・狂言の世界に親しみ、自ら謡曲を習っていた。会場を見て回ると、骨太で重厚な暗い色調を基調とする風景画が並ぶ中、水色と赤を配し繊細な筆致の能「野宮」のシテを描いた油彩画が異彩を放っていた。6000枚を超える能のデッサンを残したという須田の並々ならぬ思いが伝わってくる。今回展示されている限られた枚数のデッサンには、描かれた年代は異なるが同じく「野宮」のシテの身体の連続した動きがまるでストロボ写真のように捉えられている。瞬間を描いた画に動きが見えるのはこうしたデッサンの鍛錬によるものだろう。西洋絵画の技法と日本文化が内包する「気」が融合した本作に須田が目指した東西絵画の綜合を見る思いがした。
今回の企画展では、カメラの心得もあった須田が撮った写真も展示されている。その中で目を引いたのが《マドリ市中にて》と題するスペイン・マドリード市内で撮られた一枚。連れ立って歩く二人の婦人を後ろから撮ったもので、本人によるキャプションには「二人の婦人の服装はサラマンカというところの特色あるもの」とあるが、これはヒターノ(スペイン語でジプシー(ロマ)のこと)の女性だと思われる。サラマンカはスペインの中でもヒターノが多く住む町として知られることから、マドリードの人々の間では当時隠語のようにこの地名が使われていた可能性がある。わざわざ後ろから撮ったのは、西洋人とは明らかに異なる風貌に惹きつけられながらもある種の恐れを感じたのかも知れない。ジプシー(ロマ)という人々の存在が日本で知られるようになるのは西洋事情が新聞や雑誌を通じて伝えられるようになった明治の半ば以降のこと(「ジプシー」を世界的に知らしめることになるオペラ「カルメン」の日本での初演は大正時代になってから)で、スペイン留学時の須田にとっては謎に満ちた異邦人だったに違いない。絵画の勉強以外にもこうしたさまざまな体験から得た幅広い知識を持ち帰ったであろうことが伺える。そして、それらがのちの作品に生かされていったことであろう。
作品を見終わると、出口のところで、ご子息の須田寛さんが思い出を語るビデオの上映コーナーが設けられていた。内容は控えるが本企画展に来てこれを見ずして帰ってはあまりにももったいない、とだけ申し添えておこう。

(茶目子)
 
後日談:写真に写った二人の女性がジプシー(ロマ)ではないかという見立てについて、西洋史がご専門の先生に伺ったところ「服装の装飾などから見てそうとは言えない」とのご教示をいただいた。15世紀にスペインを含む西ヨーロッパに到達し、音楽や踊りなど独自の文化要素が各地の文学や音楽に影響を与えるまでの存在になっていたジプシー(ロマ)と須田の邂逅があったか否か。もはや確認する術はないが、全く視野に入らずに帰国したとも思えず、能の舞を熟知した須田のその後の創作への影響など興味は尽きない。

国立劇場の建て替え問題に世論の喚起を

1966年に開場し、歌舞伎・文楽・舞踊・邦楽・落語などの伝統音楽・芸能をはじめ、現代邦楽の実験的演奏会やアジア諸国の音楽・芸能との交流の場として長らく重要な役割を果たしてきた国立劇場は、老朽化から建て替えが決まり、昨年10月29日の式典をもって閉場している。以来8ヶ月が経つが、2度にわたる工事入札が不調に終わり、事業者が決まらないことから整備計画はまったく進んでおらず、これを危惧する実演家団体などが声をあげ、マスコミもさまざまな問題提起を行っている。当事者である独立行政法人日本芸術文化振興会においても今年3月以降有識者による検討が重ねられているが、このままでは令和11年度末の再開場はほぼ絶望的で、日本の伝統音楽・芸能の現在と未来に大きな影響を及ぼす深刻な状況となっている。こうした現状の中、来たる7月27日(土)13:30より楽劇学会による公開シンポジウム「国立劇場の建て替え—各国の文化政策を参照して—」武蔵野大学西東京市)にて開催される。楽劇学会は、芸能を演劇・音楽・舞踊などの諸要素が結合した総合芸術として捉えて「楽劇」と名付け、楽劇に何らかの形で関わる人、あるいは強い関心を持つ人たちを会員とする学会。シンポジウムは第32回楽劇学会大会の第三部として、一般に公開して行われる。広く世論を喚起し、日本を代表する劇場の早期再開を促すために、こうした機会を捉えて行動を起こしていきたい。

(茶目子)

《じゃぽオンラインストア》新商品のご案内

日本の伝統音楽・芸能分野(無形文化)のデジタル音源・映像をダウンロード販売する専門店《じゃぽオンラインストア》では、このたび日本に古くから伝わる袋物の工芸技術(無形文化)に新しいデザインのエッセンスを加えた伝統革工芸品を制作・販売するCoquette(コケット)ブランドと提携。特別企画として演奏家の方々に向けて、メガネ・ペンケース、ポーチ、携帯ルーペを販売中です。

日本人の職人ならではの繊細な技と温かさ、華やかさと上品さのある牛革のメガネ・ケースはクロコの型押しと箔加工を施し、真鍮の金具がアクセント。内側はスウェード調のなめらかな生地を貼リ合わせ、レンズに傷がつきにくいように保護します。ペンケースや楽器小物入れとして。ポーチは、クロコの型押しをした牛革にメタリックな箔の加工を施した後、手作業で箔を少し荒らすことで輝きを抑えたノートサイズ。内側にマスタードカラーの合皮を貼り合わせたンプルな仕様です。譜面、楽器小物やステーショナリーにも。携帯ルーペはイタリア製の牛革を使用。年月を重ねると艶や深みが増します。化粧箱入りで贈り物にもおすすめです。

メガネ・ペンケース

 

長唄「二人椀久」が大英博物館の音声ガイドに

大英博物館(ロンドン)の三菱商事日本ギャラリーでこの4月6日より公開になった特別展示「京と大坂-都市の華やぎとサロン文化1770年~1900年」の音声ガイドに、今年3月に発売のCD『みすじの糸~杵屋勝国の世界~』収録の「二人椀久」の音源が使われています。

この音声ガイドは、特別展示品のうち浮世絵版画や絵画など主要な17 点について写真画像や展示品情報とともに音声による説明(英語、日本語、中国語の3か国語対応)がついたツアー形式になっており、スマートフォン用公式アプリ「大英博物館公式オーディオガイド」(アプリ内課金)から博物館内だけではなく世界のどこからでも聞くことができます。今回同博物館からの依頼で(公財)日本伝統文化振興財団が紹介した歌舞伎音楽の音源の中から本曲が選ばれ、近世の大坂や歌舞伎に関する展示品の音声説明に背景音楽として採用されることになりました。演奏を聞いて楽しむという趣旨ではありませんが、アプリ内には主要演者と杵勝会(Nagauta Kinekatsukai)の名前がクレジットされており、世界に向けての長唄のよいPRになっています。なお、この特別展示は今後1年間公開される予定です。

「二人椀久」
唄:杵屋東成[人間国宝] 杵屋勝四郎 松永忠次郎 杵屋利次郎(和三朗) 杵屋勝彦、三味線:杵屋勝国[人間国宝] 杵屋勝松 杵屋勝正雄(勝一郎) 杵屋勝国毅 杵屋勝進次、囃子:(小鼓)堅田喜三久[人間国宝] 望月左太郎 望月左太寿郎(大鼓)仙波元章(笛)福原徹彦
[録音]平成22(2010)年12月11日「杵勝会 歳末チャリティー長唄演奏会」有楽町朝日ホール

(参考URL)
大英博物館三菱商事日本ギャラリー
https://www.britishmuseum.org/collection/galleries/japan/japan-translation

公式オーディオガイドアプリ(日本語版)
https://www.britishmuseum.org/visit/audio-app/audio-app-japanese

特別展示トークショー(2024年6月24日・オンライン開催予定)
https://www.britishmuseum.org/events/city-life-and-salon-culture-japan-1770-1900

CD「みすじの糸~杵屋勝国の世界~」作品情報
(公財)日本伝統文化振興財団公式サイト
https://s.jtcf.jp/item.php?id=VZCG-8586