じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

淡路人形座(4)伝統の継承

今年八月八日、初めての専用劇場としてグランドオープンした淡路人形座(あわじ にんぎょうざ)→http://awajiningyoza.com/ningyoza/

前回、淡路人形浄瑠璃の発祥についてのご紹介では、「道薫坊廻百姓(どうくんぼうまわしひゃくしょう)」(徳島藩が淡路の人形遣いに与えた身分)について書きました。十八世紀、人形浄瑠璃の全盛をもたらした大阪道頓堀の竹本座や豊竹座にも淡路の「道薫坊廻百姓」が参加していたようです。後の文楽の始祖植村文楽軒も淡路の出身で、ウィキペディアにも「文楽座の始まりは、淡路仮屋の初世植村文楽軒が「西の浜の高津新地の席」という演芸小屋を大坂高津橋南詰(大阪府大阪市中央区)に建てて興行したのが始まりとされる」との記載があります。ご参考→http://www.topics.or.jp/special/122545458668/2002/02/1166168463593.html
かつては淡路島の各地で巡業する人形浄瑠璃はサーカスのように、興行先に即席で建てる芝居小屋で行っていたそうで、その仮設の芝居小屋のことを「野掛け小屋」といいます。谷崎潤一郎著『蓼喰ふ虫』の中でも主人公が義父と一緒に淡路の人形浄瑠璃を鑑賞に行く場面で「野掛け小屋」が登場しました。谷崎潤一郎『蓼喰ふ虫』 - じゃぽブログ
南あわじ市のホームページに昭和30年代の「野掛け小屋」の写真が載っていました→懐かしの淡路島写真館【淡路人形】(2)野掛け舞台 - 南あわじ市ホームページ。座敷のお客さん達の表情がほんとうに楽しそうです。

淡路の人形が大阪の文楽人形に比べて大きいのは、巡業時代の芝居小屋で上演の際に舞台から遠い位置のお客さんにもよく見えるように作っていたせいだと言われています。身長が190センチという大きい人形もあったとのこと。かしらの顔は膠液で溶いた胡粉を何回も塗って、表面を艶消しにするのではなく、ピカピカに磨き上げて艶良く仕上がっています。

前回も書きましたが、かつて淡路に40くらいあった人形座も今は淡路人形座の一つのみ。その淡路人形座は、最初は福良港の汽船会社の二階で17年間、二番目がうずの丘大鳴門橋記念館で27年間、そして福良に移転して新しい淡路人形座が今年8月にグランドオープン!初の淡路人形浄瑠璃専用の劇場となったそうです。うずの丘 大鳴門橋記念館 | 【公式】うずのくに.com | 淡路島の南あわじを中心とした観光とランチグルメの情報サイト

淡路人形座で現在一番若い出演者は18歳。人間国宝の鶴澤友路師匠が99歳。福良の常設館で公演するだけでなく、若い世代にも日本の伝統芸能の素晴らしさを知っていただきたいとの思いで学校での公演やレクチャーも行っています。文化庁の支援事業では「次代を担う子どものための文化芸術体験事業」の巡回公演と派遣事業、兵庫県の補助事業「県民芸術劇場」での学校公演も行っています。
中学では二校、高校では一校、部活動として人形浄瑠璃クラブがあり、部員による公演もあるなど本格的です。淡路人形座の役者(人形遣い)吉田新九朗さんも地元の中学校の部活に入部したことが役者になるきっかけになったということでしたね→淡路人形座(2)役者<人形遣い>吉田新九朗 - じゃぽブログ

淡路人形座では昭和33年のソ連公演を初めとして、昭和49年には2か月にわたるアメリカ公演、53年にはフランス&スペイン公演と続き、今日までに延べ31か国の海外公演も行っています。また、海外の方からも人形芝居を習いに来るとのことです。こちらをご参照下さい→淡路人形座で研修した人々 | 淡路人形座

写真:(左)人形座の向かい、食事などもできる小さな通り。(右)駐車場にある塔。淡路人形座特集は今回で終了です。
取材協力:
淡路人形座 坂東千秋館長
      松山光代様
淡路人形浄瑠璃資料館 中西英夫館長
淡路人形浄瑠璃資料館 | 淡路人形座


前回までのエントリーは以下。
Introduction to 淡路人形座 - じゃぽブログ
淡路人形座(1)写真でご紹介 - じゃぽブログ
淡路人形座(2)役者<人形遣い>吉田新九朗 - じゃぽブログ
淡路人形座(3)国生み神話と淡路人形浄瑠璃の発祥 - じゃぽブログ

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