じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

第20回財団賞受賞者・川瀬露秋さんのDVDができました!!

[:W300]

このDVDに収録した「阿古屋(あこや)」は、地歌箏曲に加えて歌舞伎の分野でも活躍した川瀬白秋師の門下ならではのレパートリーです。露秋さんが歩んでいる芸の道は、三弦、箏、胡弓のまさに「三曲」。その芸の道を、突っ走るのではなく、日々の経験から何かを発見し、学び、先人の歩みを一歩一歩踏みしめるように前進していくのが彼女の良いところです。このDVDには、彼女の不断の努力から引きだされた魅力ある表現が凝縮しています。
 ― ライナーノーツより 野川美穂子東京藝術大学音楽学部講師) ―

第20回財団賞「川瀬露秋(箏曲地歌、胡弓)」のDVDが9月21日に発売になりました!
収録日は2016年7月5日 三越劇場にて。
商品番号 VZBG-52  定価 3,500円+税
お近くのレコード店。ネットショップでもお買い求めいただけます。

収録演目は、下記の通り。竹本駒之助先生はじめ、藤井泰和先生、川瀬順輔先生のご助演とご協力をいただいて、緊張感に溢れた熱演の舞台を収録しました!!


1.「阿古屋」
演奏:三曲 川瀬露秋、浄瑠璃 竹本駒之助(人間国宝)、三味線 鶴澤津賀寿、ツレ 鶴澤津賀花



2.「残月」
演奏:三弦本手 川瀬露秋、三弦替手 藤井泰和、尺八 川瀬順輔



3.「鶴門」
演奏:胡弓 川瀬露秋、尺八 川瀬庸輔


DVDの小冊子には、巻頭言と各楽曲の解説を野川美穂子先生(東京藝術大学音楽学部講師)にご執筆頂きました。詞章付き。また、世界へと飛翔する若手演奏家のために英文解説も付けた充実した内容です。
じゃぽ音っと作品情報:第二十回日本伝統文化振興財団賞 川瀬露秋(地歌箏曲・胡弓) /  川瀬露秋
財団では、将来一層の活躍が期待される優秀なアーティストを毎年1名顕彰しており、過去の受賞者19名はそれぞれの邦楽ジャンルにおいて、実に見事な活躍ぶりを示しています。財団賞の説明とこれまでの受章者一覧詳細はコチラ⇒ http://jtcf.jp/cultivate

(やちゃ坊)

国立劇場開場50周年

東京、三宅坂国立劇場が、今年開場50周年を迎えました。9月3日の文楽公演を皮切りに、来年3月まで記念公演が目白押しで、楽しみです。

開場したのは昭和41(1966)年11月1日だそうです。開場記念はどんな公演、演目だったのでしょうか?そして出演者は?と思いたって、「文化デジタルライブラリー」で公演記録を検索してみたところ、「国立劇場祝賀公演」として、大劇場・小劇場ともに『翁千歳三番叟』が演じられたようです。
大劇場は、翁が三代目市川寿海、千歳が七代目尾上梅幸、三番叟が十七代目中村勘三郎、また小劇場は、翁が花柳壽應、千歳が七代目中村福助、三番叟が八代目坂東三津五郎と、いずれも豪華なメンバーです。
国立劇場の敷地内にある「伝統芸能情報館」では「国立劇場50年の歩み展」が開かれていますので、そちらも要チェックです。

9月10日(土)、国立劇場開場50周年記念公演の9月舞踊公演「道成寺の舞踊」(1時の部)に行ってきました。
幕開けは50周年の開幕を寿ぐ『七福神船出勝鬨』。恵比須さん役の山村友五郎さんをはじめ実力派男性舞踊家5名で結成された五耀會の出演で、楽しくも華やかな舞台でした。つづいて「道成寺三題」で、荻江節『鐘の岬』、新曲『切支丹道成寺』、義太夫長唄京鹿子娘道成寺』。
プログラム
昭和の新作『切支丹道成寺』は、道成寺の物語を戦国末期に移したもので、舞台はお寺ではなくキリシタンの礼拝堂。箏や三味線にオルガン、ヴィブラフォンなど西洋の響きを加えた曲がその雰囲気をよく表していて、音楽にも興味をひかれました(作曲者の平井澄子さんらによる録音音源を使用)。
京鹿子娘道成寺』を踊ったのは女性舞踊家の中村梅彌さん。歌舞伎舞踊そのままに約1時間の大曲を踊りきり、迫力がありました。お父様の中村芝翫さんの道成寺歌舞伎座で拝見したことなど思い出しながら楽しみました。
このあと、2017年3月までの50周年記念公演ラインアップはこちらをご覧ください。→ 50周年記念公演ラインアップ|国立劇場50周年記念サイト|国立劇場
歌舞伎、文楽、邦楽、舞踊のほか、声明、雅楽、太鼓、民俗芸能、琉球芸能まで充実した内容で、この記念の年に出会えたことを幸せに思います。

(Y)

日本民謡フェスティバル2016

去る、平成28年6月26日(日)、東京渋谷のNHKホールに於きまして「日本民謡フェスティバル2016」が盛大に開催されました。「日本民謡フェスティバル」(主催:公益財団法人 日本民謡協会)は、日本各地で開催されている民謡全国大会の優勝者たちが、年に一度NHKホールに集結し、「民謡日本一」を目指して競いあうというものです。今年も50名のすばらしい唄声を堪能することが出来た、大変華やかな大会でした。
その模様が、下記日程で放送されますのでお知らせ致します。
NHK総合(テレビ)8月28日(日)15:05〜16:34
【司会】ナナオ、須藤圭子(民謡歌手)

今年はビクター専属民謡歌手の須藤圭子さんが司会アシスタントをつとめています!
こちらもどうぞご注目下さい!

(K)

じゃぽキッズ発表会シリーズ、本日発売!

連日暑い日が続きますね。幼稚園や保育園、小学校の先生は、この夏休みに秋の運動会や発表会の準備をなさる方も多いと思います。そんな中、毎年好評を頂いている児童用教材/平多舞踊研究所監修・振付けによる「じゃぽキッズ発表会シリーズ」が、いよいよ本日発売となりました!

今回は、先生方から大変リクエストの多かった<Hip Hopもの>の「Dr.モンキー」を収録!本格的なHip Hopの曲にのせ、コミカルなお猿のドクターが踊ります。医療器具がどんどん出て来るラップが楽しい1曲です。

その他、可愛いフラダンスの曲「アロハ・フラ」や、前年大人気だった「日本昔話ヒーローズ」の女の子版、シンデレラと白雪姫、オーロラ姫の3人のお姫様が登場する「ヒロインはプリンセス♡」など、楽しい曲がたくさん!まずは試聴してみて下さい!近日中にYoutubeにて動画をUP致しますので、是非あわせてご覧になってみてくださいね〜。

昨日は最高気温を更新する猛暑の中、東京都の墨田リバーサイドホールにて「サマースクール」という、じゃぽキッズ発表会の講習会が行われました。

外はとても暑い中、遠方からいらした先生も沢山いらっしゃいましたが、皆さんとても熱心に、20曲以上を熱心に踊っていました。先生方、本当にお疲れ様でした!とてもわかりやすく、また笑い声の絶えない楽しい講習会です。2016年運動会の講習会は昨日で一段落しましたが、また毎年春と秋に全国で行っていますので、よろしければチェックして、是非足を運んでみてくださいね。
講習会のブログはコチラ

(まりちょ)

波多一索先生(弊財団初代理事長)を偲んで 3

【『私の履歴』 波多一索】その3  (前回より続く)
昭和39年、東京オリンピックの折に結婚、下北沢に母と住むことになりました。結婚式当日は芝祐靖、多忠麿両師、増田正造氏など錚々たる方々がお手伝い下さり、杵屋六左衛門荻江露友両師などが先頭に立ってお祝いをして下さったことを懐かしく思い出します。
昭和41年頃から外資の自由化もあって外国のレコード会社がそれぞれ独立、ビクターからもRCAなどが分離することになったため、邦楽とは別にクラシックの仕事も私どものセクションで始めることになりました。その最初の仕事が「武満徹の音楽」で、秋山邦晴、滝淳(東京コンサーツ)両氏などの協力を得て、吉田秀和若杉弘岩城宏之各氏の協力のもとに制作。幸いにも芸術祭大賞を得てクラシックの世界では異例の評判を得ました。
これを契機に「松村禎三の音楽」、「三善晃の音楽」などが作られることになり、オペラの二期会や東京混声合唱団などが専属アーティストとなりました。

当時の録音スナップ 高橋悠治氏と武満徹氏(世田谷区民会館
 以後、拡大したビクター学芸部門には佐藤和雄、黒河内茂、高田剛、奥田瑞雄、伊藤玲子の各氏、クラシックには井坂紘氏など沢山のスタッフが加わり、仕事の幅も大きく広がりました。
平成5年発足のビクター伝統文化振興財団(現・日本伝統文化振興財団)設立に当たっては、出ロ順社長、黒河内茂さんのご尽力で初代理事長を務めることになりました。ちなみに二代目理事長が黒河内茂さん、三代目理事長(現会長)が藤本草さんです。
平成16年には、吉川英史先生が会長をなさっておられたご縁で、田邊秀雄、景山正隆両会長のあとを受け、舘野善二氏のご紹介で一般社団法人義太夫協会代表理事にさせて頂き、今回、同協会のご推薦で文化庁長官表彰を頂くことになりました。
また同年に梅宮静江会長のご推薦で一般社団法人東京都民踊連盟副会長の職を務めさせて頂き、この度の受賞に際しては日本小唄連盟、東京都民踊連盟ほか沢山の先生方のご推薦を頂きました。なお、東京都民踊連盟との関係は、昭和34年当時ビクター民踊研究会の会長を務めていたご縁によるものです。

竹本土佐子師、竹本駒之助師と共に 
現在、一般社団法人義太夫協会代表理事、一般社団法人東京都民踊連盟会長、公益社団法人日本小唄連盟副会長のほか、公益財団法人日本舞踊振興財団評議員、公益財団法人国立劇場清栄会評議員、公益財団法人日本民謡協会相談役、公益財団法人日本伝統文化振興財団理事を併せ務めています。
(おわり)

(やちゃ坊)

波多一索先生(弊財団初代理事長)を偲んで 2

【『私の履歴』 波多一索】その2 (前回より続く)
私は宮城道雄師の演奏にあこがれて、先生が専属でいらしたビクターレコードに昭和31年3月の卒業と同時に入社しました。ところが、入社早々の6月25日に宮城師が列車事故でお亡くなりになり、私の初仕事は「宮城道雄追悼盤」レコードを作ることになりました。それは、今も忘れることが出来ません。その後は、当時評論家として活躍しておられた吉川英史先生のご指導を頂いて、LP レコード「箏曲地歌の歴史」の制作を吉川先生の監修、中能島欣一、小野衛(当時は宮城衛)両師の協力で作ることになります。吉川先生はその後、義太夫協会の会長をなさり、藝大邦楽科を立て直し、生涯のライフワークとされた宮城道雄伝の執筆と、多忙な生活を送られることになります。
 
ビクター民踊研究会会長時代 ニッパー柄の浴衣で

ところで、入社早々で経験の乏しい私がいきなり古典芸能の専任ディレクターになったのには、次のような事情がありました。
当時ビクターレコードの経営が東芝から松下電器へと代わり、新しいレコード会社を作ることになった東芝が大量のスタッフをビクターから引き抜きました。そこで、私のような新人でもやむをえず使わざるを得なかったため、録音にはしばらく小野金次郎、田中宏明両先生が、専門家として立ち会うことになりました。ビクターで伝統音楽を担当していた前任者はこのジャンルの大ベテランの方で、東芝への移籍に当たって、当時大スターだった清元志寿太夫、新内志賀大掾、本木寿以、市丸など各師の録音スケジュールを決めたまま退社されてしまったので、とにもかくにも録音を実行するしかなかったのです。録音に来られた師匠方も、突然担当者が若造に変わり、さぞビックリなされたことだろうと思います。このような異例の次第で、古典芸能担当ディレクターとしての私の音楽制作がスタートしました。

特に印象深かったのは清元志寿太夫師でした。ビクター 築地スタジオ近くの歌舞伎座の、夜の部二番目で出演が終わるとタクシーで駆けつけられ、「ノドの調子が冷えないうちにテストなしで録音されたい」という注文で、当日は夕方から録音準備をして緊張しながら待機していたことを今でもよく覚えています。
 幸い、前述の「箏曲地歌の歴史」をはじめ、「雅楽大系」、「能」、「狂言」、「能楽囃子大系」など沢山の全集の録音が文化庁芸術祭大賞を頂くことが出来たのが認められて、その後はいろいろの録音をさせて頂きました。 中でも、古曲会吉田幸三郎氏のご紹介で野澤喜左衛門師にお目にかかれ、それが機縁となって「竹本越路大夫全集」を15年かけて完成することが出来ましたことが、今回の表彰の大きな受賞理由になっているように思います。

日本小唄連盟創立55周年記念パーティ鏡開き
右から波多氏、春竹利昭師、佐々舟澄枝師、浜田晃氏、藤本草

 その頃ビクタースタジオは、今の聖路加病院の筋向いにあり、近くに小唄の蓼胡満喜師が住んでおられたので、邦楽をやる以上はなにか一つ覚えたいと入門することになりました。やはり近くにお住まいだった春日とよ五師の門下で、ラジオ東京に勤務し、演劇評論家でもあった舘野善二氏と二人で、しばしば小唄の会に出演するようになり、日本小唄連盟に入れて頂くことになりました。当時は小唄の家元が、その数約200とも言われた時代で、社長が小唄をやれば社員はこぞって名取にという世相でした。
・・・・・・・・次回に続く。

(やちゃ坊)

波多一索先生(弊財団初代理事長)を偲んで 1

波多一索先生はかねてより病気療養中でしたが、平成28年6月3日(享年82歳)に永眠されました。葬儀は去る6月11・12日羅漢会館(目黒区)において、喪主・信彦様(御長男)によって執り行われました。心からご冥福をお祈り申し上げます。

今回は、昨年(2015年)1月27日に行われた「波多一索さんの文化庁長官表彰を祝う会」(アルカディア私学会館)の折、出席者に「お礼に代えて」と配られた波多さんの自叙伝とでもいうべき冊子の中から、抜粋してご紹介しようと思います。資料及び写真提供は波多一索様によるもの、聞き書きは財団会長の藤本草が行いました。(全文は既にこのブログでも紹介済ですので、ご関心のある方はこちら →波多一索さんの文化庁長官表彰を祝う会 - じゃぽブログ
【『私の履歴』 波多一索】その1

祖父・波多海蔵氏            父・波多郁太郎氏 
「波多」姓の多くは九州の出で、朝鮮半島から渡来した「秦」がそもそもです。医者が多い家系ですが、実は「秦」の字を「波多」に改めたのは私の祖父の代で、電話帳にもその頃はありませんでした。私が生まれたのは昭和8年12月1日(金)、父の郁太郎が結婚後に新居を構えた牛込若松町の家でした。五歳離れた妹もこの家で生まれました。戦時中の昭和18年に、父が慶應義塾の教師のまま、数えの42歳で急逝。一家は牛込区の実家から母と私、妹の3人で母の実家の杉並へと引き取られました。

家の廻りは東京とはいえイモ畑で(現在の西荻窪久我山の中間、水道道路ワキ)、中島飛行機の工場が前進座寄りにあって時々空襲に見舞われました。私は、戦争末期にはご多分に漏れず東北の仙台、盛岡に疎開し、小学6年生で迎えた終戦とともに杉並の母の実家に引き上げました。中学はイモ畑の先に見えた都立第十中学校(男子校)に入学、学制改革で中学が高校になり、共学となった都立西高等学校へと六年間通学しました。
高校で音楽部に入りましたが、たまたま音楽部の合唱団の一年先輩にダークダックスの喜早哲氏がおられ、慶應時代までお世話になりました。また、音楽の担任の教師が当時オペラで活躍中の名ソプラノ砂原美智子師のご主人だったことから、砂原師や当時の藤原歌劇団の方々のリサイタルを開催、ビクター時代に「我らのテナー」藤原義江師の知己を得ることになりました。

西高を卒業後、世田谷の下北沢に一家で転居、私は父が愛した慶應へと進学しました。もっとも、父は折口信夫先生一門の国文学でしたが、私はフランス文学科で、同期の出世頭には劇団四季浅利慶太氏などがいました。もっともフランス語と言っても、当時流行のフランス映画やフランス料理、越路吹雪さんの舞台にあこがれて専攻した者もいるような具合でした。 在学中の私は歌舞伎や文楽に夢中で、同時代の方々には山川静夫永六輔などの各氏が活躍しておられました。
卒業したのはもう60年ほど昔になります。当時は現在では考えられないほど伝統音楽演奏家の層が厚かったのですが、私は宮城道雄師の演奏にあこがれて、先生が専属でいらしたビクターレコードに昭和31年3月の卒業と同時に入社しました。
ところが、・・・・・・・・次回に続く。


(やちゃ坊)