じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

カール・エンゲル/ ロベルト・シューマン:ピアノ曲全集(2)

今年は、カール・エンゲル生誕90周年であり、弊財団創立20周年の年です。その年に13枚組というXRCDとしては史上最大のボックスセットを皆様にお送り出来ることを大変うれしく思っております。今回は、5月17日に発売した同作品の「聴き所」をお届けしたいと思います。

<聴き所>
 カール・エンゲルは1923年生まれで2006年没というから、今年が生誕90周年ということになる。スイスのバーゼル近郊に生まれたエンゲルは、ベルンで音楽教育を受けた後、第二次大戦後に同国ローザンヌへ移住していたアルフレッド・コルトーへ師事、1946年に演奏活動を始めたという。ソリストとしてピアノ曲やピアノ協奏曲に膨大な録音を残したのみならず、ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウヘルマン・プライといったリートの名手を数多く伴奏し、優れた歌唱を引き出す名パートナーでもあった。
 その60年に及ぶキャリアの中で、ドイツ・グラモフォンやEMI、デッカ、フィリップスをはじめとするメジャーレーベルでも数々の作品を残したエンゲルだが、各国のマイナーレーベルも多くの音源を保有しているようだ。ノヴァリス、ベルリン・クラシックスオルフェオといったレーベルが挙がるが、これらは殊にアナログ時代、素晴らしい高音質のレコードを数え切れないほどリリースしてきたレーベルであることに気づかれるレコードマニアもおいでのことだろう。
 このたびXRCD化されたシューマンピアノ曲全集は、フランスのVALOIS(ヴァロワ)レーベルの音源である。ヴァロワはアナログ時代に大きなグループを成していたAUVIDISグループの一員となるレーベルだ。同グループでは本体のAUVIDISもクラシックや世界各国の民族音楽を中心に貴重な音源を多数送り出していたが、かつて「オーディオマイスター」レーベルより復刻されたブランディーヌ・ヴェルレのフランソワ・クープランクラヴサン曲全集やパウル・バドゥラ・スコダのベートーヴェンピアノ曲全集などの録音元たるASTREE(アストレー)も入っている。アナログの全盛期には高音質レコードの一大ブランド群を形成していたグループなのである。
 1970年代はフランスのレコード業界がこと高音質にかけては最盛期を迎えた頃といってよいだろう。ハルモニアムンディ、エラート、パテ、カリオペ、アリオンなどなど、数え切れないほどのレーベルが今を盛りと名演奏・名録音の華を咲き競わせていた。エンゲルによる「シューマンピアノ曲全集」も1971〜75年と、まさに全盛期の録音といってよいだろう。収録はドイツ・ハノーファーベートーヴェンザール、714席のシューボックス型ホールで、長年にわたって数え切れないほどの名演奏・名録音が繰り広げられてきた名ホールである。
 サンプル盤がわが家へ届いて早速じっくりと試聴してみた。足掛け5年にもわたった録音プロジェクトだけに、録音年代によって微妙に音の出方が違うが、それは致し方ないところであろう。しかし、ざっと聴いてみた範囲では、やはりすべてに貫かれた1本の線のようなものが聴こえてくる。
 特にクラシック音楽で顕著だが、音楽の録音には楽器や演奏者の姿を鮮明に見せることを意図した「音像タイプ」と、コンサートホールの響きまで含めて音楽として収録する「音場タイプ」に分けられるのではないかと思う。ピアノなどでは前者はスタジオで、後者はコンサートホールや響きの良いギャラリー、教会などを使って録音することが多いものである。その分類でいけば、今作は名ホールというべきベートーヴェンザールを用いているのだから、明らかに後者の録音といってよいだろう。
 この手の録音は、ホールの響きをたっぷり録ることにこだわると得てして楽器や演奏者の姿が遠くボンヤリとしてしまい、特に立ち上がりの良くないオーディオ装置で聴くとコンサートホールの後ろの方で聴く不鮮明なサウンドになってしまいがちだ。しかし今作にその心配はない。700席そこそこの割にゆったりと空間を取ったベートーヴェンザールの豊かなホールトーンをたっぷりと収めながら、音像はくっきりと鮮明でスタインウェイの大きさを存分に表現、ハンマーが弦を叩き、振動がフレームを伝わって響板を響かせているさまが伝わってくるような表現だ。
 おそらく今作は近接マイクでピアノの音像を鮮明に収録し、別個ホール後方にアンビエントのマイクを立ててホールの響きを収録、それをブレンドしているのであろう。ブレンドのさじ加減次第で音像側にも音場側にも振ることのできる録音方式だが、かなり立ち上がりの良いわが家の装置で聴く限り、コンサートホールの少し前側で聴く音の感じだ。多くの装置ではホールの特等席で聴く感じになるのではないか。
 こういう録音で好ましいのは、ホールの生演奏ではまず聴こえないレベルまで、演奏者がつける繊細なタッチの違いが克明に聴こえてくることだ。じっくりと演奏へ身を委ねるにつけ、エンゲルがいかに闊達で情感を豊かに伝えていたかが耳に染み渡ってくる。録音年代を考えるとエンゲルは40代後半から50代初め、最も脂の乗った頃でもあったろう。亡き名手が全盛期に残した素晴らしい演奏をこのXRCDクオリティで味わえるようになったことを、心よりうれしく思う。               (炭山アキラ氏)


(Yuji)