先程発売された『レコード芸術』6月号の新譜批評欄で、当財団の新譜「C.ドビュッシー 前奏曲集 第2巻/江戸京子(ピアノ)」が二人の評者が共に「推薦」とする【特選盤】に選定されました。
「C.ドビュッシー 前奏曲集 第2巻/江戸京子」(VZCC-96)
本作は、同じくレコ芸特選を獲得した2008年9月発売の「前奏曲集 第1巻」(VZCC-84)に続くアルバムです。江戸京子さんは日本におけるクラシック音楽文化の真の成熟を目指して、アリオン音楽財団の理事長をはじめさまざまな要職に携わってこられましたが、演奏家として音楽と向き合う姿勢をつねにその原点としていました。戦後早い時期にフランスに留学した日本人の芸術学生といえば数えるほどしかおらず、いずれもが天才の上に超がつく才能の持ち主ばかりでしたが、江戸京子さんもその一人でした。
江戸さんの類稀な企画力、行動力、調整力がピアニストとしての活動を背後に追いやったのは残念でしたが、その代わりに日本の聴衆はアリオン音楽財団の<東京の夏>音楽祭という、何物にも代え難い宝物の数々を授かることができたのです。「日本の音楽家たちを支える受容側の土壌も、脆弱だった時代から様変わりし、先人たちの教育を受け継ぎ、世界に羽ばたく才能が輩出される時代に」なったという時代の変化を受けて、2009年の第25回を最後に音楽祭は幕を閉じました。→ 「<東京の夏>音楽祭 アーカイブ」
しかし、それと平行して「ピアニスト・江戸京子」の活動がついに再開されたことは、やはりこれもまた僥倖というしかない出来事でした。当財団からリリースされた「C.ドビュッシー 前奏曲集 第1巻」は多くの専門家、厳しい耳をもつ批評家や音楽愛好家から揃って喝采で迎えられ、日本におけるドビュッシー演奏の輝かしい一頁を刻むものとなりました。
わたしの勝手な印象ですが、この2枚のCDで聴ける音楽には、ムードだけに浸る音楽とはほど遠い、核心に迫った表現の凄味があります。そして、江戸京子さんの師匠でもあったフランスのピアニスト、イヴ・ナットに通じる強靱で揺るぎないタッチが生む甘美な明晰さ、幾層もの論理を同時に展開させる構想力が溢れています。わたしが初めて購入したベートーヴェンのソナタ全集のディスクはイヴ・ナットが1950年代前半にEMIで録音したものでしたが、その状態のよくない録音の向こうに耳を澄ましてたぐり寄せていた響きの実相が、江戸京子さんのCDでは最上の録音によって思い通りに描き出され、気品に満ちた結晶の輝きをまとっています。それはほとんど眩しさを感じさせるほどに。
ジャケットの絵柄にも考えさせられるところがあります。というのも、ドビュッシーの音楽を「印象派」と呼ぶことでドビュッシーと象徴派の詩人達との濃密な精神的交流が隠蔽されるきらいがあった、という専門家による従来からの指摘が昨今一般的にも浸透するようになってきているわけですが、そうした解釈の状況を当然ご存じであるはずの江戸京子さんが、この自らの2枚のCDでは堂々と印象派の画家の絵を使っているのは、はたしてどんな意図が働いているのか等々・・・。まあ、そういったことは聴き手ひとりひとりの楽しみなので、あまり細かく記すことではないかもしれません。ここから先は、クラシック音楽の専門の批評家による賛辞に席を譲ることにしましょう。
以下は『レコード芸術』6月号に掲載された、濱田滋郎さんと那須田務さんによるレヴューです。
濱田滋郎 【推薦】 先日、お目にかかる折を得たときのこと。江戸京子女史は「ピアノを弾いてきた証しとして、ドビュッシーの《前奏曲集》両巻だけは、何としても録音しておきたいと希っていました。幸いなことにそれが叶ったから、もう、これでいいわ」と述懐された。そうおっしゃるだけに、先年出された第1巻につづいてここに聴く第2巻も、「入神の域」という言葉が誇張ではないほど、鮮やかで、底深く、板に付ききった表現に始終している。しんから気に染む作品を選び、文字どおり生涯をかけて、心おきなく磨き上げる……思えば多くの多忙なヴィルトゥオーソたちにとっては不可能なことである。江戸京子は世上難事となっているそのことを、一念を抱いてここに成し遂げた。〈妖精たち〉や〈花火〉のデリカシーをきわめた音彩のうつろい、〈ビーノの門〉や〈ラヴィーヌ将軍〉のまたとない間(ま)拍子の決まりかた。すべてにあえかな詩情がゆらめき、ここにしかない夢幻境がひろがる。「私は本当は文学に進みたかったの。とりわけドビュッシーに惹かれるのも、そのあたりからでしょうね」とも言われたが、そうかもしれない。とりわけ、この人の指のもとでは、これ以上の鮮やかさで物語る音楽は他になく、これほど真に迫って詩(うた)う音楽もまたない、と実感されるのだから。「これでもういいです」はいつか撤回して、せめて《版画》や《映像》をこの人から聴けるよう、ひそかに願いつづけているとしよう。これは真正の宝である。
那須田務 【推薦】 毎年のように開催されていた「東京の夏音楽祭」やアリオン賞の選定などを行なっている、財団法人アリオン音楽財団の理事長として活躍する江戸京子のディスク。早い時期から外国に学び、欧米で活躍。そして日本における、クラシック音楽を取り巻く文化的な環境を創出するために尽力してきた。1999年からは岩手県の久慈市アンバーホールの館長(芸術監督)の任にあり、当ディスクも、同館において2009年から2010年にかけて録音されている。その江戸京子といえばやはりフランス音楽だ。1955年に渡仏し、パリ国立音楽院に学んだ経験を持ち、1998年にはフランス政府から「芸術文化勲章オフィシエ」を授与されている。これはその《前奏曲集》第2巻。余計なものを極力そぎ落とした表現の持つ純度の高さがある。彫琢されたソノリテと響きのコントロールが素晴らしい。そしてイメージの豊かさ。しかし、豊かではあっても肉感的ではない。江戸氏と同じ時期にパリに学んだドラージュのショパンと比べてみると両者の違いは明らかだ。余分なものを削ぎ落として響きと表現は引き締まり、各曲の性格が際立っているが、あくまでも品がいい。〈奇人ラヴィーヌ将軍〉のユーモア然り。いくぶん枯れたピアノの音色が印象に作用しているのかもしれないが、掘りの深いデュナーミクによる〈ピックウィック卿を讃えて〉や明晰でウィットに富んだ〈花火〉など味わい深い演奏が並んでいる。
『レコード芸術』6月号では、当財団の新譜「箏曲《六段》とグレゴリオ聖歌《クレド》〜日本伝統音楽とキリシタン音楽との出会い」も【特選盤】に選定されました。こちらはまた日をあらためてご紹介させていただくことにします。
(堀内)