じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

下野戸亜弓 箏曲リサイタル2011

毎年秋は芸術祭参加公演が多く(対象公演が11月下旬までの応募で審査が12月に行なわれるため)、内容の濃い演奏会が目白押しですが、昨夜わたしが足を運んだ「下野戸亜弓 箏曲リサイタル2011 ─言葉と音楽との対話─」(銀座・王子ホール)も参加公演のひとつ。このホールはクラシックの室内楽向けの深い響きが特徴ですが、意外と邦楽器のコンサートにも使われています。キャパが丁度良いし、立地的にも銀座ならばコンサート後にゆっくりできる店も多くて気持ち的にも安心。

下野戸さんが学んだ山田流箏曲では、とりわけ歌や語りに重点が置かれています。もとより、日本の音楽では器楽曲というのは稀で、ほとんどが言葉との関わりで成立しています。従って、現代の作曲家にとっても、日本音楽の本質と向き合うなかで、言葉と音楽の関わりは重要なポイントとなります。今回の公演は、そこにスポットを当てたもの。下野戸亜弓さんの持ち味を全面に出し、しかも諸井さんの30分を超える大作の新曲初演という、未知なる高峰への挑戦をも含む意欲的なプログラム。今回は共演者を迎えず、全曲下野戸さんの独奏。大曲・難曲を揃えて、しかし絶妙な配置と表現力で、一夜の演奏会としての有機的な流れを見事に作り上げていたように思います。

秋風の曲 (蒔田雁門 作詞/光崎検校 作曲)
狩の使 「伊勢物語」より (柴田南雄 作曲)【1993】
秋の琴 〜もうひとつのレクイエム〜 (諸井誠 作曲)【2011新作・委嘱初演】
万葉の恋歌 「万葉集」より (下野戸亜弓 作曲)【2011】

「秋風の曲」では、箏から響くひとつひとつの音にそれぞれ別の命が与えられ、個々の音は束の間の出会いと別れを繰り返す移ろいゆく世の中へと写されつつ、その変転とも重ねられ、美しさと喜びと悲しみへと引き込まれながら、透明かつ深みのある下野戸さんの歌声がやすらいに満ちた語り部となって、わたしの心を充たしていきました。次元の違う世界が目の前に開かれていく瞬間は、いつでも感動的なものです。

柴田南雄さんの「狩の使」では、音楽と言葉、三絃と声(歌・語り)が双方向的に作用し、両者がつかず離れず進んでいきます。「伊勢物語」の内容を反映した夢と現実の曖昧な境界、そうした「あわい」を描写するのではなく、演奏される音楽自体が「あわい」としてまさに目の前で成立する様子が作品として提示されていく。つまり「事態」の音楽ともいえます。(こうしたアプローチは、高橋悠治さんの数多くの邦楽器のための作品を思い出させます)

当夜の圧巻は、諸井誠さんの新作、30分を越す「秋の琴 〜もうひとつのレクイエム〜」の初演でした。詩人・中村稔さんの詩集『幻花抄』からテキストが選ばれ、大地に咲くコスモスの花の向こう側に、消え去っていく命への追想を抱きとめる、地上世界を超えた宇宙が広がっていることを観想する内容を謳っています。以下は、<序唱>部分の詩。

「私はひとつの素朴な琴となりえないものか。過ごしてきた生涯の心の垢を洗いおとし、素朴な琴となって、秋の澄明な空の下、可憐な野草の花々の中にわが身を委ねるとき、ひょっとして、天から目に見えぬ巨きな手が永訣の音楽をわが琴で奏でるかもしれない。秋はそんな幻想に私たちを誘う季節である。」

わたしは自分が幼い頃から人間であることは「とりあえず」の状態でしかないと思っていて、荘子胡蝶の夢ではありませんが、本当は路傍の草や石、空を映す小さな水たまりなのかもしれないと(今でも)半分本気で信じています。したがって、こういう詩は特別に心に訴えかけてきます。最初に鳴り響いたディアトニックな和音群、そして下野戸さんの透明な奥行きのある凛乎(りんこ)たる歌を聴いた途端、この作品の内的論理と骨格、そして情意の果てしなさが察知されました。数ヶ所で爪をはめた指で箏の背面の板を打つあの音は、おそらく終生忘れないと思います。

諸井誠さんが箏独奏者のために書いた作品としては、先週の当ブログでもCDでの復刻をご紹介した(「S.M.のためのシンフォニアという宮下伸さんの三十絃他のための偉大な名作がありますが、それを上回る箏独奏の大曲の誕生に立ち会うことができるとは・・・。

この諸井さんの新作について、下野戸さんはプログラムで、「邦楽という枠を取り外し、現代歌曲としての可能性を感じていただければ幸いです」と記されていますが、ただし歌と語りに重点が置かれながらも二面の箏を高度な技巧と表現力を駆使して弾き続ける点で、やはりこれは歌い手と楽器を一人で担当する邦楽器による作品の伝統に連なる「邦楽作品」ではないか、とも。もちろん従来の「邦楽」の枠からは相当外に出た、現代における新たな「邦楽」のかたちを示唆している作品です。現代歌曲でありつつ、邦楽でもあるといった、こうしたことが矛盾なしに実現可能なところにこそ、「日本の文化」ならではの独特な作法や方法意識の発現を見たいと思います。

ところで、諸井誠さんの音楽に関しては、このところ再評価の機運が高まってきているように感じられます。やっと時代が諸井さんの音楽に追いついたのかもしれません。今年ナクソスから発売された「ピアノ協奏曲第1番」(1966)の初演〔小林仁(p)、森正(指揮)、NHK交響楽団〕や「対話五題」(1964)の初演〔酒井竹保、酒井松道(尺八)〕といった貴重な音源を含むCD作品集はじつに素晴らしい内容で、たしか「レコード芸術」誌で特選を獲得したのではなかったでしょうか。

また先月には、故・廣瀬量平さんの邦楽器のための第2回目の作品展廣瀬量平作品連続演奏会II|邦楽器への激(たぎ)る想いを次世代に」が昨年に続いて開催され(2011年9月24日、渋谷区文化総合センター 大和田伝承ホール)、そこでも素晴らしい作品が若い世代の演奏家に引き継がれて充実した成果を示していました。(第一回目の同演奏会については、このブログで書きました→

こうした芸術的な指向=思考に基づいた邦楽器による新しい音楽作品の創作と演奏は、かつてNHKの現代邦楽のラジオ番組等のサポートもあって、1960年代後半から1970年代前半にかけてピークを迎えますが、その後は限られた演奏家と聴衆の手で目立たず継続されてきました。しかし、このところ少しずつ潮目が変わってきたような気がします。CDが増えたり売れ行きがアップしたということはありませんが、実際の演奏会の場において、シリアスな邦楽器を使った作品が多く演奏され始め、それが聴き手にも(ようやく、といってよいのか)受容されるようになってきたことを実感する機会が増えているように思えるからです。それは、かつてNHK邦楽技能者育成会の設立時に教育者の立場にあった多くの先駆者たちによる、日本音楽の本質の巨視的視点からの探究と今を生きる伝統としての創造の実践の成果を礎に、同育成会から巣立ち、かつての現代邦楽の隆盛を担った名演奏家の方々が、今や次の演奏家の世代に、古典だけでなく「わたしたちの時代の古典」としての現代の邦楽の意義と財産を、大切な音楽の泉として継承し始めたという現象とも無関係ではないと思われます。そして、こうしたことが商業的見地とは完全に無縁な純粋に音楽的関心と使命感に発している点が、なによりも尊いものに感じられます。



これは柴田南雄さんが邦楽器のために書いた作品を集めたCD柴田南雄と日本の楽器』。収録曲は、「枯野凩」(1986)〔能管:芝祐靖、十七絃箏:沢井一恵〕/「狩の使」(1993)〔三絃・唄・語り:高田和子〕/「霜夜の砧」(1980)〔尺八:三橋貴風〕/「夢の手枕」(1981)〔龍笛:芝祐靖、箏・唄・語り:友渕のりえ〕。高橋悠治さんの短くも含蓄に富む有為な解説文が、こちらの高橋悠治さんのHP内で読めます。→

下野戸亜弓さんの演奏会に戻ります。当夜最後に演奏されたのは下野戸さんの自作自演で、「万葉集」からの大津皇子石川郎女との相聞歌による「万葉の恋歌」。決して音楽の外面が似ているということではないのですが、わたしの心の内に、松村禎三さんが作曲した「古事記」の歌をテキストにしたソプラノとピアノのための「軽太子(かるのみこ)の歌える二つの歌」の特別な感興が甦りました。そしてまた、下野戸さんが歌手として客演した芝祐靖さんが作曲した新作雅楽『呼韓邪單于(こかんやぜんう)』)や、同じく芝祐靖さんが作曲した正倉院復元楽器による 敦煌琵琶譜』)の中の「長沙女引」などにも通じる、たおやかな情感の拡がりに満ちた世界も感じられました。そこには、なにかしら時を超えて共通する芸術精神の領土、その風景や空気といったものがあるように思えて、おそらくそれは自分の存在の「わたし自身が生まれる前からそこにあった」核にあるようなものと反応し合っていて、それがたまたまこうした音楽を聴くことで、「自分ではない、自分を生かしている、命の芯」が起き上がり、懐かしさでうれしく騒いでいる、その状態を、「感動している」と、「わたし」は錯覚しているだけなのだろう、ということを瞬間的に感じている・・・、そうした心地・境地に遊ばせてくれる作品であり演奏でした。

 

芝祐靖作曲『呼韓邪單于』は、雅楽のなかに山田流箏曲の下野戸さんの歌が三カ所で登場するという、ある意味で「破格」な作品ですが、しかし歌・言葉と雅楽の結びつきによって、別の新たな可能性が確信をもって提示された、まさに誕生時から「本格」たる風格を備えた作品です。この芝さんの曲を聴いていても、わたしは同じような、未生の魂の郷愁を強く感じます。(そこでは、もはや、音楽を聴いているのは、わたしではない、というような時間が訪れています)

私には、下野戸亜弓さんが、遠いところから降りてきた言葉に節をつけて聴かせている、まるで巫女のような存在に思えました。それは、意識的な表現を窮めていくことで反転して見えてくる地平なのでしょう。下野戸さんは憑依する手前に留まることで、その遠くからやってくるものに正確に呼応しようと努めていましたが、そこにわたしは強い慈愛と責任の意志を感じます。貴重な響きでした。

下野戸さんは2005年に前橋市民文化会館小ホールで開催したリサイタルを自主制作CDとして発売されています。収録作品は、「さらし」(北沢勾当 原作・深草検校 補作)、那須野」山田検校 作曲)、「目覚める寸前」より ─声と箏ための─(東野珠実 作曲)、「ヴォカリーズ」(北爪道夫 作曲)、「樹下の二人」小山清茂 作曲/高村光太郎 詩「智恵子抄」より)。邦楽ジャーナルのショップ()とマザーアースのショップ()で入手可能です。

下野戸亜弓 website


(堀内)