じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

鈴木輝昭インタビュー

作曲家・鈴木輝昭さんのインタビューが雑誌「教育音楽 中学・高校版」12月号(音楽之友社)に掲載されています。この雑誌は中学・高校の音楽の先生向けのもので、記事内容の多くは演奏や鑑賞など音楽の授業の作り方に関するものです。今月号の高校特集が「授業が成立しないとき どうしたらいいの?」となっていて、現場の深刻さを垣間見る思いがします…。

 

さて、鈴木さんのインタビューの内容は、以下のテーマを巡るものです。真剣に譜面と向き合って理想の音楽を作り上げることの大切さ。21世紀の今を生きる作曲家としての自身について。そして日本というローカリティに基づいた真にインターナショナルな作品を発信していくという課題について。短い紙面の中で、拡がりのある言葉が凝縮して語られています。以下に、その一部を引用します。

日本人は、外国の文化を柔軟に、かつ貪欲に学んで吸収して日本独特の文化にしていく。古代からそうやってきましたよね。これからだと思うんです、日本的な価値観や感性の優れた面が普遍性を持って世界に認められていかなければならないのは。ですから、日本語というものを母体とした、日本のアイデンティティをしっかり持っているような作品を生み出したい。それは必ずしも日本語を伴っている、という意味ではなくて、そこから派生するメロディーやリズム、いろいろな要素を含めて。本質的な意味でのローカリズムであり、言語から放たれる呼吸や空気、そして今述べたような日本人の感性や価値観が投影されたものです。

箏・三味線・尺八などにしても一般に「和楽器」と称されるのが半ば常識のようになっていますが、かつて音楽学者の小泉文夫さんは、「日本にわが国固有の楽器と呼べるものはひとつも存在しない」と指摘していました。つまり「日本の伝統音楽」といっても、さかのぼれば朝鮮半島や中国から渡来したものがほとんどだということ。それを意識的か無意識的かはともかく普段は忘れていることで起源は神話化されて(つまり根拠はもはや検討される必要はなく、ただ伝承すればよいという傾向に陥りやすい)、そこにいわゆる「日本の伝統音楽」というものが曖昧に出来上がったのが現在の姿であるともいえます。

鈴木輝昭さんは、日本人が歴史的に外国から取り入れたものを日本特有の文化にしてきたことを語っています。この「日本化」は当然外面的な変異をもたらしますが、しかしそれ以上に「日本化」の鍵は、おそらく内面的な価値観や技法、または感受性の違いの内部にあるように思われます。日本人のクラシック演奏家の体験談を見聞きすると、音の間合いの感覚や響きの色彩感に関して、自分では意識していないのに外国人から「日本的だ」と指摘されることがよくあるそうです。作曲家でも、少しも日本を意識して作っていないのに「日本的な響きだ」と言われる等。もっとも、こうした例は「意識しないアイデンティティ」と呼べるものですが、鈴木輝昭さんが語っているのは、それとはまた違った「自覚的に捉え直す、意識するアイデンティティ」のことであって、つまり、そうした日本的な個性の在り処(ありか)を見つけ出しそれに基づいた「日本の文化」の創出の方向性を示唆しているのだと思います。

この雑誌の巻頭グラビアに面白い記事を発見しました。「伝統文化の若き担い手たち――東京都府中市立府中第四中学校 お囃子部・日本文化部を訪ねる」。

この「日本文化部」の現在の活動内容は、おもに日本舞踊と和太鼓だそうですが、しかし同時に「日本文化」といわれるものを茶道、着付、礼儀作法まで色々とやっているそうです。いま普通の生活をしているだけでは、こうした作法を身に付ける機会はほとんど失われつつあります。「文化」とは生活・暮らしの中にあるものですから、現代日本のあまりに西洋化した生活環境においては、邦楽をはじめとする伝統文化が定着しづらくなっているのも頷けます。

しかし、最後に残っている「日本語」というものの中に、日本固有の価値観やアイデンティティを生み出す鍵がまだ根付いていることも確かなように思われます。古典の精神をよく理解し伝承することと、そこから学びつつ、普遍に近づくための創造的活動をたゆまずに続けていくこと。この両輪が、今後いよいよ大切になってくるように思います。鈴木輝昭さんが仰っていることは、まさにそのことだろうと思います。


お知らせ: おまたせしておりました鈴木輝昭さんの新しい合唱曲CD『日本合唱曲全集 頌歌(ほめうた)/鈴木輝昭作品集4』(VZCC-98)は、2011年3月2日の発売が決定いたしました。(2011年2月8日追記)
じゃぽ音っとブログ「鈴木輝昭・新作CDと演奏会」

鈴木輝昭作品を収録した当財団のCDはこちらをご覧ください。

(堀内)