じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

テノール歌手 木下保先生(4)

『 レッスン部屋で先生の帰りを待っている間に、隣の学生が「あの、あなたこの音楽会に行ってみる気ない?」と声を掛けてきた。見るとチラシには「木下保独唱会」とあり、《R.シュトラウス歌曲の夕べ》とある。田舎にいてもレコードは何枚か持っていたし、殊にスレツァークやシュルスヌスのドイツ歌曲でR.シュトラウスの何曲かは耳にしていたので、「じゃ、行ってみます」と切符を買った。木下保というテノールは、ラジオで「第九」などのソリストとしてその名前は知っていたが、実際に声や歌を聴いたことはない。(中略)「憩え、わが魂」という歌曲が始まった。静かな一筋の光を思わせる空間に、突然怒涛のような音響が日本青年館のホールを襲った。水谷達夫先生が渾身の力で弾き出す音響の凄まじい迫力を前に、少年の私の体躯は震えた。大袈裟な表現ではない。心の奥底から突き上げてくる激動。それを抑えるように「憩え、わが魂よ」と自分に言い聞かせる木下先生の歌唱を私は一生忘れることはないであろう。あの体躯の震えと共に。 』
上記は、弊財団より3月2日にリリースしたCD『 木下保の藝術〜信時潔團伊玖磨歌曲集 』の解説書にお書きいただいた、バリトン歌手で音楽評論家、畑中良輔先生のお話の一節です。
本日は、シリーズでお伝えしている「テノール歌手 木下保先生」の第4回目です。(前回は4月1日でした。) 木下 保(きのしたたもつ 明治36〜昭和57年)は、留学して帰国後に、海外から持ち帰った貴重な資料を紹介するために、リサイタルを開催します。昭和14年に畑中先生が体験した「木下保独唱会」は、大変記憶に残るリサイタルだったようです。
昭和18年の事だったと思う。木下保先生の独唱に依る「信時潔歌曲の夕べ」が青山の日本青年館で開かれた。(中略)数すくなかったテノール独唱者としての印象的な先生の舞台は、今でも僕の瞼に、耳に、数多く焼き付いているが、中でもこの青年館の一夜程印象の強かった演奏会は、当時作曲の学生であった僕にとってなかったと言って良い。正直にこの一夜で僕は日本歌曲 ──日本の歌曲の作曲の将来とその可能性── に就いて開眼したのである。よくいろいろな音楽家と話し合うのだが、あの夜の演奏会で、日本歌曲に開眼したのは僕だけでなく、何人もの作曲家が、そして声楽家が、たったその一夜で開眼し、その各々の道を辿りながら、歌曲へのグラナド・アド・パルナスムを昇り始めたのである。 』
(【グラドゥス・アド・パルナッスム】パルナッソス山への、はしご段という意味のラテン語。パルナッソス山は詩、音楽、学問の発祥の地として知られているそうです・・。)
こちらの感想は、團伊玖磨先生が、日本歌曲連続演奏会プログラム〈平井康三郎歌曲の夕べ〉(昭和47年)に寄せられたものです。團先生も木下先生の演奏会で、強い影響を受けられたようです。
昭和20年代團伊玖磨氏は、書き上げた声楽作品を持って、代々木の木下先生宅へ足を運んでいたとのこと。木下先生に、さまざまな感想と指摘、助言を受け、その一群の作品の中に生まれたのが、木下保先生に捧げて作曲した、歌曲集『わがうた』 だったそうです。

 ↑ 本アルバムには、昭和34年頃、團伊玖磨氏立ち会いのもと録音された『わがうた』が収録されています。『わがうた』は、5曲から成り「ひぐらし」などは、とても良い曲です。木下先生による渾身の歌唱を是非お聞きいただければと思います。次回は、オペラに挑戦する木下保先生です。

木下保氏(写真提供:増山歌子様)

(制作担当:うなぎ)