じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

斉藤春子の地歌、吉住小三郎(慈恭)

先日国立劇場「上方の芸・江戸の芸」を聴きに行きました。午後3時からの第二部「浄瑠璃と唄をめぐって」だけの鑑賞でしたが、河東節、女流義太夫地歌長唄と、一流どころの演奏を堪能しました。なかでも深く心に響いたのは、三絃弾き語りで地歌「青葉」を演奏された斉藤春子さん。この方の演奏を聴くのは初めて。古典一筋、箏、三絃、胡弓をものにして大阪を拠点に活躍を続けられている古格を守った継承者とのことですが、これぞ「間」の芸術という見事な三味線の技(わざ)と、明瞭な言葉で真っ直ぐに伸びてくる日本古来の自然な発声のうた。息をするのも忘れるほど、音楽のなかに全身が引き込まれました。上方の芸の代表としてこの日の演奏会に抜擢した企画者の眼力に感謝するばかり。

この日の第二部最後の演目は、長唄「安宅勧進帳(あたかかんじんちょう)、これまた壮絶な名演となりました。まだ演奏が続いているのに満場から大喝采が湧き起こり、嵐のような拍手のなかで演奏が終了。これはクラシックのコンサートでは味わえない邦楽ならではのカタルシスです。堅田喜三久さんの鼓の音、演奏の所作にまたしても釘付け。

昨日たまたま、吉住慈恭著『芸の心』(毎日新聞社)を通勤時に読んでいたら、この「安宅勧進帳」について書かれた箇所がありました。

先代〔注:三世吉住小三郎(1832-1889)〕の追善の会を明治34年(1901年)11月16日に催しました。浜町の日本橋倶楽部でした。そこで「安宅勧進帳」という長唄をはじめてうたいました。
「安宅勧進帳」は「安宅の新関」ともいわれ、明治の初めに、亡くなった根岸の勘五郎〔注:三世杵屋勘五郎(1815-1877)。前名は十一世杵屋六左衛門が、能の「安宅」をもとにして詞を綴り、それに節付けをしたものです。ねらいとしては、芝居の勧進帳そのまま全部を長唄にして、物語り性を強くしたものになります。文久年間に作られたのだそうですが、誰もうたう人がなかった。それを勘五郎の内弟子杵屋せつという人がいて覚えていたのです。
勘五郎が亡くなったあと、六四郎〔注:三世杵屋六四郎(1874-1956)〕の妹でいよという人が、せつのところへ稽古にいって「安宅勧進帳」を習ってきたのを、六四郎が聴いて、面白いものだから、ぜひやってみたいといっていた。なにかいい機会はないかと思っていたところ、先代吉住小三郎の追善の会が出来ることになって、その会で発表したのです。
この曲は、初めは「安宅の新関」として出来ていたのですが、「勧進帳」と掛合いでも演奏出来ると本に書いてあったので、掛合いで演奏し、「安宅」の部分の鳴物も、そのときに作調されたのです。呼び方も「安宅勧進帳」としました。その当時は珍しいということもあって、よい評判をいただきました。



吉住慈恭(1876-1972)は、四世吉住小三郎として、三味線の名手・杵屋六四郎(後に稀音家六四郎稀音家浄観)と共に明治35年長唄研精会を設立し、芝居の伴奏音楽ではない“舞台音楽としての長唄”を確立した近代邦楽界を代表する音楽家のひとりです。昭和23年には六四郎と共に芸術院会員に選ばれ、昭和31年には人間国宝無形文化財)に指定されました。コロムビアに残した貴重なSP音源は、現在はCD全集『四世吉住小三郎全集』(COCJ-34006〜17)で聴くことができますし、東芝の石坂泰三さんとの縁で82歳を迎えた昭和33年からは東芝音楽工業での録音も開始(昭和38年には子息の二代目吉住小太郎に家元を譲り、自らは慈恭と改名)。当財団から復刻したCD長唄]「助六/都風流」で、この当時の吉住小三郎(吉住慈恭)と稀音家六四郎の熟練の芸を聴くことができます。

邦楽舞踊シリーズ[長唄]「助六/都風流」
唄:吉住慈恭(人間国宝) 三味線・上調子:稀音家六四郎(VZCG-6004)


昭和38年の87歳時の演奏の動画がyoutubeにありますのでご紹介。「鳥羽の恋塚」 唄:吉住慈恭、三味線:稀音家六四郎、稀音家四郎助。音声が画像よりも少々遅れて出てくるのですが、まあそのあたりはご愛嬌・・・こんな貴重なもの、ちょっと余所では見られません。


最晩年の吉住慈恭(四代目吉住小三郎)インタビュー。


斉藤春子さんの地歌も吉住慈恭さんの長唄も、「間」の感覚が研ぎ澄まされているという共通項があるように思います。「間」の話は奥が深く、色々と広がりのある主題なので、今日はこのあたりで・・・。

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「10年前の展覧会」("MA" Exhibition,20 Years After 「間―20年後の帰還」)
 1978年にパリ秋の芸術祭の一環としてルーブル装飾美術館で開催された「日本の時空間―間―」 展は、建築家の磯崎新さん(当時47歳)と作曲家の武満徹さん(当時48歳)がプロデュース、エディトリアル・ディレクターの松岡正剛さん(当時34歳)が総合アドバイザーを担当した伝説的な展覧会。翌1979年にはニューヨークのクーパー・ヒューイット美術館等でも「Ma / Space ‐ Time in Japan」として開催されました。

(堀内)