じゃぽブログ

公益財団法人日本伝統文化振興財団のスタッフが綴る、旬な話題、出来事、気になるあれこれ。

1969年

●1969年ってどんな年だった?
ピンク・マルティーニとのコラボで一躍話題になった由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」が深夜のラジオから流れ、透き通るような歌声に魅了された1969年。歌詞の意味もわからないままに覚えた新谷のり子さんの「フランシーヌの場合」。後にフランシーヌ・ルコント(Francine Lecomte)がパリで政治活動中に焼身自殺した実話に基づいた歌だったことを知った。そういえば、「フォーク・ゲリラ」と呼ばれた、新宿西口広場で反戦歌を歌う集会が週末ごとに行われ、新聞やニュースで大きく取り上げられていた。「道交法違反」という理由で、まもなく新宿西口のフォーク集会は禁止され消滅していった。そもそもこの年の幕開けが、東大安田講堂事件だった。全共闘新左翼の学生が東大本郷の安田講堂を占拠し、封鎖解除のために放水される映像をテレビで見ていた。アポロ11号による人類初の月面着陸!この写真は新聞にもグラビアにもあらゆる表紙という表紙に載った。テレビで「ゲバゲバ90分」「8時だよ全員集合」が始まったのもこの頃だった。
YouTube
●その時の柴田睦陸

この写真はずっと若いころのものと思われるけれど、1969年6月、東京大藝術大学教授だった柴田睦陸は、学生たちからの申し入れを受け入れて奏楽堂で教官演奏を行った。若者たちが血気にはやる世の風潮は藝大といえども同様であったらしく、学生と教官たちとの間で公約となったまま実施されていなかった第一回の教官演奏を、当時は演奏からはだいぶ離れていた柴田先生が、結果的に引き受けることになった。先生は言う「持ち前の気性は、いつもこんな時に貧乏くじを引く」。
この時の演奏会を収録した貴重なオープンテープが、ご家族のご協力によって見つかった。柴田先生自身によって、お気に入りだった「しあわせの窓」が自主制作のLP盤(後のVDC-5038にも再録)に収録されたことがあったものの、それ以外は世に出ることがなかった。「第一回」と称した教官演奏は、その後行われることはなく、この時の柴田先生の歌唱は、まさにその場にいた学生たちの記憶にとどめるだけの幻の演奏となり、名演奏だったと噂され、伝説として語り継がれていった。この演奏会形式の演奏が藝大の公式行事だった記録はないようで、この録音はおそらく先生サイドが録音したもののようである。当時としては珍しいことに、大きなテープレコーダーが何台か家にあったとご家族は記憶している。
奏楽堂を満員にしたこの演奏が、噂に違わずいかに素晴らしいものであったかは、演奏そのものの迫力と緊張感、そして鳴り止まない拍手が全てを物語っている。今秋発売予定の「生誕100周年記念盤」で、ぜひとも「永遠のテナー」の神髄をお聞きいただきたい!

●その時の西岡たかし
同じ1969年6月、ビクターレコードからシングル盤「恋は風に乗って/遠い世界に」が発売された。西岡たかし率いる五つの赤い風船である。オートハープの音色、ボーイッシュな女性ヴォーカルの個性的な歌声、爽やかなハーモニーが衝撃的だった。もともとURCアングラ・レコード・クラブ)で会員配布されていたLP盤からのシングル・カットで、いわゆるメジャー・デビュー盤として発売された。

(駆け抜けるように過ぎ去ったこの時代のフォーク事情については、なぎら健壱著の「五つの赤い風船とその時代」[2012年(株)アイノア発行]に詳しく語られていて、ぜひともお薦め。また五つの赤い風船というからにはメンバーは5人だったと、ず〜っと思っていたけれど、4人しか写っていないということに気づいたのは、随分あとになってからだった。この辺の事情も前著に詳しい)

さて、この時のシングル盤ジャケットの写真にご記憶があるだろうか。(SV-1047には実は2枚のジャケットがあった。風船のイラストのものと、メンバーの写真が写っているもの。今取り上げようとしているのは、メンバーの写真の載った方のこと)
10年以上も前、ひょんなことから西岡さんに「この写真はいったいどこで撮ったんですか」と尋ねた事があった。メジャー・デビューしたアーティストのために作られたレコード・ジャケットとは、とても思えない写真だったからだ。湿地に枯れた草が生えているだけの荒涼とした風景に、黒っぽい普段着を着たメンバーの姿がある。西岡さんはトレードマークのサングラスに帽子といういでたち。生命観の全く感じられない殺風景な中に、別にポーズを決めるでもない普段着の若者たちがいるだけなのだ。しかし、それは、今ここには希望はないかもしれないけれど、「遠い世界に」こそ夢や希望がある事を知っている俺たちがいる!とでも言いたげな写真でもあった。
撮影場所は、当時「夢の島」と呼ばれた東京湾のゴミの埋立処理場。悪臭やハエの発生が公害として問題になりつつも、高度成長を続けて止まらない日本、24時間眠らない大都会で日々生み出されるゴミが東京湾の浅瀬を次々埋め立て地に変えていった時代。そして、昭和29年、ビキニ環礁アメリカの水爆実験の被害をうけたマグロ漁船「第五福竜丸」が、被爆後転々として廃船となり、この埋立地周辺に棄てられていたのも、ちょうどこの頃のことである。

この写真は、第五福竜丸記念館に展示されているパネル。まさに1969年、第五福竜丸は「廃船」と題されたNHKのドキュメンタリーで特集された。


その後も、一体何故この場所で撮影したのかという理由は、ず〜っと西岡さんに聞きそびれたままになっている。現在西岡さんは、ソロで、あるいは中川イサトさんや青木まり子さんらと共に音楽活動を続けている。夢の島は、都立公園として整備され、熱帯植物園、スポーツ施設、マリーナ、バーベキュー広場などもある緑の豊かな場所に様変わりしている。そして、第五福竜丸は、核兵器の恐ろしさを後世に伝える貴重な木造船として、この公園の一角にある展示館の中で、今も「原水爆のない未来へと航海を続けて」いる。

1969年と今と、44年もの時間の流れの中で変わっていったものが何で、変わらないものが何なのか、上野の森の奏楽堂を見上げたり、夢の島公園の緑地を散歩しながら、私は第五福竜丸の傍らでぼ〜っと考えている。

重要文化財 旧東京音楽堂→http://www.taitocity.net/taito/sougakudou/
第五福竜丸記念館→http://d5f.org/
●都立夢の島公園http://www.yumenoshima.jp/index.shtml

(やちゃ坊)